飛沫の代償

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愛しの我が子を将来有望な人材に育て上げるべく、親子二人三脚で宿題に取り組んだり、英語の読み聞かせをしたりすることを、一概に「悪いこと」だとは言わない。だが、目に余るほど母親が口出しをするのは、いかがなものだろうか。

当の子どもは飽き飽きしており、集中力の「し」の字も感じられない。おまけに、遊びに行きたい気持ちを抑えることができず、適当な答えを記入しては母親に指摘され、正答を母親が書き込む・・という、なぞのクイズ合戦が行われているのだ。

しかも、ここは都心のスターバックス。周りを見渡せば、勉強に励む若者やパソコン作業に没頭するビジネスマンで溢れており、小学生が母親とともに宿題を済ませることが不適切だとは思わない。だが、子どもの一挙手一投足にイチイチ反応する母親の言動は耳障りであり、恥ずかしさを超えて哀れに思えてくるのだ。

 

(興味もなければ聞く気もない子どもに向かって、答えを教えたあげくに小難しい解説をする・・という行為は、「時間の無駄遣い」という以外に適切な表現はあるのだろうか)

昭和20年代から今も変わらず、文部科学省が提供する”詰め込み暗記型の学校教育”に否定的なわたしは、正解が書いてあれば優秀・・という歪んだ能力評価システムを毛嫌いしている。にもかかわらず、そんな教育方針に前のめりで喰らいつく、哀れな「親子劇場」を見せつけられては、気分が悪い上にこちらの集中力も削がれるではないか。

——なぜ、あえて小難しい説明で理解させようとするのだろうか。覚える気がないのならば、覚えなくてもいい勉強・・例えば「一心不乱に書き写す系」や「仲間はずれを探す系」など、本人ができそうな学習をさせればいいじゃないか。まぁ、それを許さないのが日本の学校教育ってやつか。

 

すると、先ほどから鼻水をすすっていた子どもが、突如、派手なくしゃみをかました。しかも、あろうことか目の前に座るわたしに向かって、口に手も当てず思いっきり飛沫を浴びせてきたではないか。

幸いにも、皮膚のどこかでウェットな汁を感じることはなかったが、目の前にあるコーヒーとアーモンドラテに、子どもが放った唾液が混入していないとは言い切れない。仮に混入していなかったとしても、このシチュエーションの後にゴクゴクと美味そうに飲むのは、さすがに無理である。

 

それよりなにより、一部始終を見守っていた母親の第一声に驚かされた。

「あぁ、大丈夫?寒くない?なにか飲み物買ってこようか?」

などと言いながら、子どもの背中をさすっているではないか——いやいや、まずは唾を浴びせた相手に謝罪するべきだろう。

我が子が可愛いのはよくわかる。だが、そのことと社会性や一般常識を叩きこむこととは、まったくの別問題である。むしろ、大切な我が子が社会で孤立しないよう、今のうちからマナーやエチケットを教えておくのが親の務めではないのか。

 

母親はそそくさと立ちあがると、鼻水を手で拭う子どもを見守りながら、温かい飲み物を買いに行くそぶりを見せた。そんな母親に向かって、左足で通せんぼをしたわたしは静かにこう伝えた。

「ついでに、わたしのコーヒーとラテも買ってきて」

彼女は一瞬、「は?」と苛立ちの表情を浮かべてこちらを見たが、そんな悠長なことを言っていられないほどの殺気に満ちた視線の奥に、おそらく恐怖と現実を見たのだろう。わたしの目の前にある二つのマグカップに目をやると、何も言わずにレジへと向かったのである。

 

(なかなか察しのいい母親だな)

 

 

こうしてわたしは、2杯のつもりで入ったスターバックスで4杯のコーヒーを飲むこととなった。とはいえ、最初の2杯は半分も飲んでいないので、決して気分のいい「ワンモアコーヒー」とはならなかったが。

いずれにせよ、物事は順番を間違えると厄介なことになる・・ということを、あの母親は身をもって子どもに教えられたわけだ。

 

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