思い返せば今から4年前、頸椎ヘルニアが悪化したことで左の肩甲骨周辺の痛みと腕の痺れにより、夜も眠れぬ時期を過ごしていた。
だがあの時は、とにもかくにも首の痛みに苦労させられた記憶がある。寝方一つとっても、首への負担を最小限にする位置および角度で横になる必要があり、そういった意味で睡眠が困難だった。
ところが今は、首というより肩から背中にかけての疼痛・・もとい激痛が続き、痛すぎて眠れないのだ。いつ何をしていても襲ってくる、常軌を逸した痛みと痺れ——常時、こんな苦痛と付き合わなければならないなんて、とてもじゃないが生きた心地がしない・・と言いたいところだが、生きているからこそ痛みを感じるのであり、むしろものすごく生きているのである。
そんなわたしだが、今朝、やはりというかなんというか「期待通りの順応性」を発揮した。
相変わらず四六時中痛みに襲われているが、昨日までは苦痛のあまり顔を歪めたり声が漏れたりしていたのに、今日は見事にそれらの反応を抑えられている——そう、痛みに慣れたのだ。
これこそが、わたしの生まれ持った才能であり特徴でもある。痛みというものを敵視するのではなく、己の一部として受け入れることで、気が付くと”いつの間にか慣れている”という奇跡を起こすのだ。そのメカニズムというのは、「この疼痛も自分の一部」という思い込みにより脳をコントロールしているだけなのだが、どんな鎮痛剤よりも効果覿面なので実に便利な機能といえる。
とはいえ、痛みが軽減したわけでも痛覚が鈍ったわけでもない。叫び狂いたいほどの疼痛と、握っていたキュウリを落としてしまうほどの指の麻痺は相変わらずで、断じて「状態が好転した」ということではない。
それでも、思い込み一つでここまでラクになるならば、絶対にやるべきだろう。これこそが、人間に備わる脳の高次機能であり特権なのだから。
(この疼痛としびれはデフォルト、この状態こそが本来のわたしの姿・・よって、いちいち痛いだの苦しいだの言わないことだ。無意識に呼吸をするように、苦痛を無条件で受け入れるのだ!)
こんな単純な思い込みで痛みと仲良くなれるのだから、なんとも幸せなものである。とはいえ、「それでも痛いことに変わりないんだから、スルーするなんてできっこない!」と思う者もいるだろう。ならば、こういう考え方はどうだろうか。
「(食べ物の味が)甘いかしょっぱいかの違いと同じで、ただ単に『そういうものなんだ』と認知すること」
これならば、多少なりとも理解を得られるのではなかろうか。痛みというものを敵視するのではなく、感覚の一つとして許容し処理することで、「だからなに?」という反応に変えるのだ。
「辛い料理はダメ」とか「パクチーが苦手」というように、味覚の好き嫌いは誰にでもある。だが、だからといってそれらを敵視するわけではない(いや、場合によっては敵視することもある。わたしでいうところのあんこやグリンピースがそれに当たるわけで)ように、消えることのない疼痛を”当たり前の感覚の一つ”として認識してしまえば、「まぁ、こんなもんか」という諦めに近い感想に落ち着くのだ。
こうしてわたしは、また一つ新たな感覚を装備して歩き始めるのであった。
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それにしても、今回の件で多くの方々に声をかけてもらった。過去に同様の怪我を経験した人からの助言だったり、鎮痛剤でも散らすことのできない苦痛の乗り越え方だったりと、粗野で風来坊な異端児(わたし)に向かって、心ある血の通った言葉を届けてくれたことに感謝を申し上げたい。
そして今、先ほど服用したタリージェ錠のせいか、はたまたツートラム錠の影響か分からないが、吐き気および重量感のある眠気に加えて意識が朦朧としてきたので、少しだけ横になろうと思う。
(あぁ、MRIの予約時間に遅刻しないようにせねば・・)
これが何らかのフラグにならないことを祈りたい。




















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