あらゆる場面で「今さら」なことが多いわたしだが、中でもピアノだけは、未だに「今さら」のオンパレードであることに衝撃を受ける。もしもこの感覚を小学生の頃・・いや、高校生の頃に持っていたら、わたしの人生は大きく変わっていたかもしれない——。
そして「今さら」の多くは技術的なことではなく、社会的なことあるいは人として当たり前のことなので、「なんでこんな普通のことに気がつかなかったんだろう」と、大きなショックを受けるとともに、いくつもの点と点がビビビッと繋がった結果、オセロ盤の端から端まで全部をひっくり返したかのようにスッキリするのである。
——おっと、回りくどい言い方は止めてさっさと告白しよう。なにを隠そう、わたしは今日、ピアノの弾き方について重要なことを知ったのだ。それは「気を遣って弾く」ということだ。
(・・・・・え?)
うんうん、そうだろう。ほとんどの者はそうなるに決まっている。だがこれは、わたしにとってはとてつもない大発見であり、これこそがわたしに足りなかった配慮というか感覚だったのだ。
レッスンの途中で「もう少し気を遣って弾いてみて」と言われたわたしは、「そういえば、今まで気を遣って弾いたことはなかったなぁ」と呟いた。それを聞いた先生は呆れ顔で、
「ピアノというか楽器を扱うのに、気を遣ってなかったの?」
と尋ねたのだ。——言われてみればその通りである。もしもこれが、ストラディバリウス(世界一高価なヴァイオリン)のような億超えの楽器ならば、言われるまでもなく極限まで気を遣い、腫れ物に触れるように丁重に扱うだろう。
だが、それこそ物心ついた頃からピアノの上に乗って遊んだり、鍵盤に寝転んだりしていたわけで、本来ならば大切に扱わなければならない楽器を"遊具の延長"で捉えていたのだから、気など遣うはずもない。
その結果、鍵盤を叩けば音が出るおもちゃ(?)という認識で、今に至ったわけだ。そりゃ、いい音など出るはずもない——。
よくよく考えてみれば、人間関係だって同じではないか。相手の気持ちを考えずにずけずけと思ったことを投げつけていれば、知らず知らずのうちに傷つけるかもしれないし、嫌な思いをさせるかもしれない。ただでさえ相手の気持ちなど分かるはずもないのだから、気を遣いすぎて損することは少ないはず。
現に仲のいい友人との関係性を振り返れば、いつだって相手の気持ちを慮(おもんぱか)っているじゃないか。相手が触れてほしくない話題や気にしていることについては、極めて慎重に判断し可能な限り口に出さない。これは、大切な相手であればあるほど、いい意味で常に気を遣って(無理矢理とかストレスになるほどではなく、ごく自然に当たり前の範疇)いるわけで、それこそが円滑な交友関係を保つ秘訣でもある。
それなのにわたしは、ピアノという楽器に対して一切の気を遣うことなくン十年を過ごしてきたのだ。それはすなわち「楽器の音を聞いていない証拠」であり、そのくせ「いい音を奏でたい」などと願うのは、寝言は寝て言え!の極みである。
そして、先生からの助言を受けたわたしは「気を遣って」鍵盤を押してみた。——そうだ、このピアノは先生が所有する名器・スタインウェイじゃないか。わたしごときが気軽に触れられる代物ではないし、その音色を存分に引き出すことなどできるはずもない。それなのにわたしは、自分が弾きたいようにジャンジャカ雑に鍵盤を叩いていたわけで、なんて失礼なことを——。
そんな反省と後悔を胸に、わたしはもの凄く気を遣って音を出した。それこそ"ピアノ様"の顔色をうかがうように——。
「そうよ、その音を出してちょうだい」
真顔の先生は、あっさりとそう言い放った。
*
ピアノという楽器は「物」だから、当然ながら「気持ち」や「感情」は持ち合わせていない。それでも、わたしが弾いているこの曲は"生き物"の側面を持ち、人間に弾いてもらうことで命を吹き込まれるのだ。
そして、生き生きと輝かしく奏でてくれる弾き手のところへと、曲は飛んでいくのだろう。
——だからわたしのところへは来てくれなかったんだ。
今日からは、ピアノに対してもヒトに対しても「気を遣う」ということを、最重要課題としよう。
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