ピアノレッスンも、ジョブ型?!

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幼少の頃と今とを比べると、社会的に変化したことはたくさんある。むしろ、変化したことばかりかもしれない。

だが「稽古」のような伝統的な習い事まで、イマドキっぽくなっていたことには驚きを隠せなかった。

 

 

ピアノを再開して2年が過ぎる。

今の先生には「なぜわたしが、ピアノを改めて習おうと思ったのか」について、しっかりと伝えてある。それゆえに、間違いなくわたしに不足している演奏技術や表現力について、また、音楽の理論について徹底的に叩き込んでもらっているわけだ。

「ピアノが弾けて楽しいでしょう?」

というよくある質問に対して、

「じゃあオマエは・・・」

と、例えを挙げて反論したいところだが、思いつかない。

 

人それぞれ趣味や特技は違うし、得意だから好きというわけではない。嫌々やらされることもあるだろうし、楽しくて仕方がない場合もあるだろうから、その人にとってどうかという「主観的な感覚」でしかないからだ。

 

ちょっと話は逸れるが、「ピアノが弾ける」という言葉は、非常に幅が広いと感じる出来事があった。

本人がどういうつもりで発言したのかは不明だが、話を聞いたところ「かなりの腕前」だった。幼少期に弾いたとされる曲もかなりの難易度で、もしも本当に「弾ける」のであれば、本当にすごいと思ったのだ。

 

ところが、とあるタイミングでその人の演奏を聞く機会があり、わたしは唖然とした。

 

とはいえ、わたしが勝手に「このくらい弾けるのだろう」と想像していただけで、本人はそこまで主張していたわけではない(かもしれない)。

ただ、その曲が「弾ける」というからには、最低限「このくらいの演奏はできるはず」と考えるのが妥当、というレベルは存在する。

言い方を変えると、「楽譜通りに鍵盤を叩ける」イコール「ピアノが弾ける」となると、かなり多くの人が該当するようなものだ。

 

・・・こんな嫌味なことを言うから、ピアノをちょっと弾ける人たちが委縮してしまうのだ。

楽譜通りに鍵盤を叩ければ、それで十分じゃないか。楽譜が読めない人やピアノを触ったことのない人にとっては、ピアノから曲が流れるだけで、演奏者のことを「ピアノが上手い人」と称賛するのだから。

 

ふと思ったが、これは「英語が話せる」と似ているかもしれない。

どのくらいのレベルならば「話せる」と言っていいのか。よく、「日常会話レベル」という表現を耳にするが、実際に英語圏で日常生活を送ってみなければ、本当にそのレベルかどうか定かではない。

なぜなら、旅先での英会話など日常会話ではないからだ。

 

逆に、謙虚で控え目な日本人は、多少の会話が成立する程度では「英語は話せない」と言う人もいるだろう。TOEIC何点以上でなければ、恥ずかしくて「英語が話せる」なんて言えない、と考える人も多いからだ。

 

これについても、ネイティブやバイリンガルからすれば、

「英語が話せるって言ったのに、全然話せないじゃん!」

となる状況がないとは限らない。要は、当人の「主観」の問題だからだ。

 

――話を戻そう。

この2年間、主にバロックから古典派にかけての曲を練習してきた。バロック音楽は16世紀頃から18世紀半ばにかけての音楽であり、日本では室町時代の終わりから江戸時代の途中くらいか。

有名な作曲家といえば、バッハやビバルディといった上品そうな肖像画の人々があげられる。これはバロック音楽というものが、王族や貴族の娯楽として存在していたことを裏付けている。

実際に、当時はまだ音楽に市民権のない時代だった。さらにピアノも存在しないため、ヴァイオリンなどの弦楽器やチェンバロで演奏できる曲だけが作られていた。

 

つまり、バッハの曲はチェンバロで弾くことが前提のため、ピアノで弾く際に「意識の違い」を取り入れる必要があるのだ。

 

ここが、わたしにとって非常に難しかった。なんせ、そんな弾き方は教わらなかったわけで、どちらかというと「ただそれっぽく弾ければいいや」という感じだったからだ。

しかしここへきて、明確にバロック音楽を理解させられ、再現することを求められたのだから、初めての体験というか「苦行」である。

 

色々なピアニストの演奏をYouTubeで聞くも、最低限のルールや仕組みを守りつつ、独自の表現で弾いており、知れば知るほど奥が深い。

そしてわたしは、先生の指示通りに弾くことで、こじんまりとしたバロック音楽を理解しつつある、というのが精一杯の現状。

 

――本日のレッスンでのこと。

バッハのシンフォニアを弾き終えたわたしに向かって、先生がこう言った。

「今みたいにすべてのバッハを弾けるようになったら、別の先生に習うといいわよ」

まるで突き放すような発言に、わたしは驚いた。しかしどうやら、イマドキのピアノレッスンは、生徒が先生を選ぶのが「当たり前」なのだそう。

 

「私たちも月に何度か、ピアノ指導者のための指導レッスンを受けているの。それとは別に、私自身のピアノレッスンもあるし、ピアノは日々進化しているのよ」

 

このような仕組みがあるとは知らなかった。たまにはピアノ講師同士で、情報交換でもするのだろうと思っていたが、まさか月に何回か「指導者のためのレッスン」を受講しているとは、驚きを超えて頭が下がる思いだ。

そのため、指導者のための指導レッスンの講師ごとに、教え方や曲の解釈が異なるわけで、今の指導者から学ぶべきことがなくなったら、さっさと別の指導者へ移るのだそう。

 

無論、誰もが皆そうではないだろう。ただ、もはや教わることがないのに、その先生に師事し続ける意味がないのも、言われてみればごもっともである。

 

 

日本の労働環境が、メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用へと変わりつつあるように、ピアノのレッスンも指導者の力量を見極めて、バサバサ斬り捨てる時代を迎えたのだ。

とはいえ、わたしが偉そうに先生を斬り捨てるには、まだまだ相当の時間が必要。よって、メンバーシップ型のレッスンで定年を迎える気がするのである。

 

Illustrated by 希鳳

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