スライドカッピングとベトナム兵

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わたしは今日、生まれて初めて「スライドカッピングによる筋膜リリース」を体験した。

 

カッピングとは、別名「吸い玉」とも呼ばれており、ガラスやプラスチック、シリコンなどでできた丸っこいカップを皮膚に密着させて、専用器具をつかって真空状態にし、血液循環の改善を図る治療法である。

本来ならば、皮膚に吸い付いてじっとしているのがカッピング。だがそれを、窓ガラスを拭くかのように動かすことで、血流を促進させるだけでなく、筋肉の動きを良くしたり筋膜をほぐしたりすることができるのだそう。

 

友人から「スライドカッピングの練習台」の打診を受けたわたしは、人生初の超吸引を体験するべく、いそいそと新宿へ向かった。

 

くり返しになるが、スライドカッピングは通常のカッピングとは違い、高速でゴシゴシこするのが特徴。いや、正確には、オイルを塗った肌の表面を滑らせるように、カップをシャカシャカとスライドさせるのである。

それにしても、ダイソン顔負けの吸引力をみせるカッピングは、施術者が気を緩めればピタッと張り付いて離れないのではなかろうか。そのくらい、この世のすべてを吸い尽くせるほどの吸引力とともに、わたしの太ももやふくらはぎを忙しくカップが這う。

 

「痛くない?」

 

友人が尋ねる。・・・痛い?それはどの部分の話だ?

 

「このくらいの強さだと、みんな痛くて悲鳴をあげるんだよ」

 

この発言は、にわかに信じがたいものであった。わたしの足をせわしく行き来するカップと吸引力は、どちらかというと心地よい吸い付きと、肌を撫でられる安心感のようなものを与えてくれている。

これのどこで、悲鳴をあげるというのだ。

施術者が友人でなければ、あやうく居眠りをするところである。それくらい、この「カップでゴシゴシ」は、気持ちいい以外のなにものでもない。

 

そのときふと、わたしは自分が「痛みに強いタイプ」であることを思い出した。

とはいえ、痛みを感じないわけではない。痛みを感じたうえで「どう捉えるのか」という部分が、他人とは違うのである。

たとえば、15年前に韓国で受けたアートメイクの施術中、麻酔なしでまつ毛の隙間をゴリゴリ彫られたわたしは、痛みに耐えるというよりも「架空の自分」を想像していた。

 

「もしもわたしがベトナム戦争に駆り出されたベトナム兵だとしたら、明日を迎えるどころか、1分後にはこの世にいないかもしれない。一歩足を踏み出せば地雷を踏むかもしれないし、明後日の方向から何かが飛んできたかと思えば、手りゅう弾かもしれないわけで。そうなれば、手足を失うだけでは済まないかもしれない。最悪の場合、わたしは痛みなど感じない世界に行ってしまうだろう。・・・そんな劣悪で絶望的な状況からすれば、麻酔なしで皮膚や粘膜に針を刺すことなど、比較するまでもなく甘っちょろい話である。そうだ、わたしはベトナム兵なんだ。こんな小さな痛みごときで騒ぐようでは、この世を生きる資格などない!!!」

 

わたしの中で何かが弾けた。それ以降、わたしは「いちベトナム兵」として、見事に戦い抜いたのである。

 

 

「痛いかどうかを、聞いた私が間違いだった・・」

という表情の友人を見上げながら、わたしはスライドカッピングを満喫した。

 

もしも、施術時の状況をわたしなりに言語化するならば、

「野生動物、なかでも哺乳類の子どもが、おかあさんのおっぱいと間違えてわたしの足に吸い付いて、高速移動している感じ」

だろうか。

 

なぜ野生動物かというと、彼らは生きるのに必死だからである。過酷な自然環境で生き抜くためには、何が何でもおかあさんのおっぱいにしがみつかなければならない。

そんな彼らの必死さと、カッピングの吸引力とがシンクロしたのだ。

 

・・・あくまでも一個人の感想であり、これが一般論ではないということを、念を押して伝えておく。

 

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