大宮公園小動物園で暮らすカピバラのチェリーは、幼少期に母親の歯が自身の目に刺さってしまい、眼球を摘出する大怪我を負った。それでも、獣医や飼育員らの適切な処置と対応のおかげで、9歳を迎える今日も元気に過ごしている。
動物の怪我や病気について、野生の世界で考えたら発生率はさらに上がるだろう。そして、骨が折れたり生爪が剥がれたりした程度でギャアギャア騒いでいたら、それこそ生き抜くことなど不可能。
そのくらい、己を守るための治癒力というものを、動物は兼ね備えているのである。
にもかかわらず、過剰に保護された温室育ちのニンゲンときたら、やれ切っただの擦っただのでいちいち大騒ぎするではないか。
「皮膚が切れたんだから、痛いに決まってるだろうが!」
そう怒鳴りつけたいほど、現実を理解できずに痛みを訴える坊ちゃん嬢ちゃんが多すぎる。
麻酔や採血の際の注射について、
「痛いの嫌だから、痛くないようにやってもらいたい」
などとほざく弱虫がいる。いやいや、よく考えてみなさい。いくら細いとはいえ金属の針を血管へ刺すのだから、物理的に考えても痛くないわけがない。そんな当たり前のことも分からないのかと、呆れてしまうのである。
念のため補足するが、わたしはやたら滅多に「痛みを我慢しろ」といっているわけではない。なるべくなら痛みとは無縁の生活を送りたいし、できることならば痛みは最小限に抑えたいと思っているわけで。
しかし、とにもかくにもニンゲンは痛みに弱すぎると言わざるを得ないほど、たった一ミリのささくれでさえもヒィヒィ泣き言をいうから埒が明かない。
そんなことでは、広大で過酷な自然を生き抜くことなど不可能なのだ。
*
わたしは今、右足の親指を見つめている。正確には、親指をグルグル巻きにした白いテーピングを見つめているのだが。そして、その先っぽにはどす黒い血が滲んでいる。
(ダメだ、怖くて取れない・・・)
このテーピングを外したところで、今となっては事態は沈静化しており、出血もとっくに止まっている親指の爪が現れるだけだが、その現実を目の当たりにすることができないわたしは、さっきからただただ、遠目に親指を見つめているのである。
わたしの親指になにがあったのかというと、不慮の事故により爪がガッツリと剥がれたのだ。しかも、剥がれた爪がピンっと立ち上がっている姿を視認しているわけで、その下にある肉をこの目でしっかりと見てしまったのだ。
もしもあの状態を見ていなければ、「爪が剥がれたかな?」くらいで済んだであろう。つまり、「爪は剥がれていない」と信じることができたのだ。
「爪が剥がれそうなくらい、痛かった」
ということは、剥がれていないのである。あたかも剥がれたかのような痛みだったが、幸いにも爪は付着したまま無事だった・・ということだからだ。
ところが皮肉にも、わたしは己の爪の下にある肉を見てしまったのだ。見てはいけないものを隠すかのように、上を向いた爪を咄嗟に押さえつけたのだが、それでも、あり得ない方向に爪が自立していた光景が脳裏から離れない。
(すぐに圧着したから、きっと剥がれていないに違いない)
とにかくそう念じるしかなかった。そしてそれを実現するべく、爪の上からテーピングをグルグル巻きにして、強い念とともにこの世から葬り去ったのである。
そして今、わたしは改めて親指の爪を見下ろしている。
(テーピングの下は、果たしてどうなっているのだろうか?)
いたずらに興味は湧くが、その現実を受け止めるにはまだ日が浅すぎる。もう少し、このままそっとしておこう——。
「外科か皮膚科で診てもらいなよ」
友人からまっとうなアドバイスを受ける。
(はぁ?なにをぬかすか!これがもしも野生での出来事だとすれば、病院などあり得ないのだぞ?!爪が剥がれたくらいで病院など行くものか!)
「ばい菌が入って感染症とかになったら困るし」
(デター!!このわたしが、ばい菌などというよそ者にやられるとでも思っているのか?バカも休み休み言えってんだ!)
「痛み止めくらいは飲んだほうがいいんじゃない?」
(うわうわうわ、ここにも対処療法信者がいたか!痛みを感じるということは、すなわち、生きているということじゃないか。なぜわざわざ、そんな素晴らしい感覚を麻痺させるような真似をするのか?)
様々な感情が渦巻く中、わたしは絞り出すようにこう答えた。
「もしも感染症で死んだとしても後悔しないと、いま決めた」
病院へ行くくらいなら、痛みに耐え爪が再生するのを待つのみ。もしも診察で、再び爪を剥がされて状況確認などされようものなら、痛みと恐怖で卒倒するに違いない。
・・そう、怖いのだ。そんな現実を想像しただけで、とてつもなく恐ろしいのだ。
ならばと、わたしは覚悟を決めたのである。この先なにがあろうと、わたしはこの決断を後悔しないと。
そう、わたしは野生を生き抜く希少種・ニンゲンである。己の治癒力でどうにかしてくれようぞ!
*
足の親指から漲るパワーのようなものを感じながら、それでもなるべく親指を床に着けないように、かかと歩きで冷蔵庫へと向かうのであった。
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