赤坂にある韓国料理店を訪れたわたしは、店員のラインナップに驚かされた。
港区赤坂が外国人で溢れていることは、わりと有名な事実である。それに伴い、外国人の店員が増えたことも周知の事実。そのため、銀だこのキャッシャーがミャンマー人であろうが、コンビニの店員がベトナム人であろうが、それはそれで風流を感じるくらい自然に受け入れてきた。
だが今日、韓国料理店でサムギョプサルを焼いてくれたのが、日本人じゃなどころかおよそ韓国人でもない外国人・・そう、インド人だったのだ。
インドといえば言わずもがな、カレーの聖地である。数えきれないほどのスパイスを駆使したインドカレーは、日本でも多くの人に愛される料理の一つ。
そして、その誇り高き調理方法は、やはりインド人でなければ再現できないであろう、複雑かつ繊細なこだわりがあるのではないか・・いや、そうであってほしいと願うほど、インド人が作るインド料理は独特の風味を感じるのである。
そして、さすがにスパイスの調合のような作業はないにせよ、韓国料理を食べるならばやはり、韓国人に作ってもらいたいもの。
豚の三枚肉を豪快に専用プレートへ横たえ、しっかり火が通ったら専用のハサミでジョキジョキ切り分けていく——。これはやはり、韓国人にお願いしたいパフォーマンスなのである。
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「肉ヲ焼クノデ、カバンヲ下ニ置イテクダサイ」
ジュージューと音を立てて焼き上げられる肉からは、大小さまざまな油が勢いよく飛び散る。それらの飛沫で客のバッグが汚れないように、予め注意をしてくれたのだ。
(・・おぉ。親切に教えてくれて、ありがとう)
心の中で感謝を告げながら、声を掛けてくれた店員の顔を見た瞬間、わたしは予想以上に驚いた。
決して、人種差別をするわけでも多様性を否定するわけでもないが、外国料理店の店員が外国人だったならば、それは十中八九、その国出身の人だと思うのは普通だろう。
ところが、超有名な母国料理があるにもかかわらず、あえて近隣諸国の郷土料理店で腕を振るうとは、なかなかのやり手とお見受けした——。
インド人と思われる若い男性店員が、トングを駆使して三枚肉をひっくり返していく。作り手が韓国人ではないというだけで、こうも料理のイメージが変わるものなのかと、なんとも不思議な気持ちで手際を見守るわたし。
そしていよいよハサミを取り出すと、一口サイズにジョキジョキ切り分けていった。そういえば、韓国人が切り分けるサムギョプサルは、豪快かつ自然にカットされるイメージだが、インド人が切る三枚肉はどことなく控え目で、そっと鉄板へと戻されていった。
——そういえば、某パティシエが言っていた。「料理というのは、"味"意外の部分で美味さが左右される」と。たとえば誰と食べるのか、たとえばどんな器に盛られているのか、たとえば店員の対応がどうなのかによって、目の前の料理の美味さは変わるものなのだ。
この説でいくと、「誰が作ってくれたのか」によっても、やはり美味さは変化するわけだ。仮に、金髪の外国人が鼻歌まじりに寿司を握っていれば、日本人は疑いの目で見るだろう。ところが、職人気質の白髪のじいさんが、ニコリともせずにちゃっちゃとマグロを握っていたら、それはもはや食べる前から美味いに決まっているわけで。
・・ということは、このサムギョプサルも「韓国人が雑に切り分けてくれたほうが、雰囲気も出るし美味さが増す」となるはずだが、なんと答えは「ノー」だった。
インド人が丁寧に切り分けてくれた、一口大の三枚肉。表も裏もいい感じに焦げ目がついており、サンチュに載せやすいサイズのため食べやすい。これはもしかすると、韓国料理ではなくインド料理なのではないか——。
そう感じるほど、どことなくタージ・マハルに似ている鉄のプレートを眺めながら、わたしはサムギョプサルを堪能するのであった。
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