そういえば、年末のラスト二日はいいこと尽くしだった。
まずは30日——。つきたてのモチを手に入れたことで、一足早く正月気分を満喫することができたわたし。なんせ、わたしが無類のモチ好きであるのを知っている友人は、親族主催の餅つき大会にて仕上がった上等なモチを、ジップロックに詰めて与えてくれるのが年末の恒例行事となっている。そのため、わたしの胃袋は毎年ガッチリと掴まれた状態で年を越すのであった。
彼女は、真面目できちんとした性格に加えて合理的な判断が得意なため、他者とは異なる餌付けの仕方でわたしを手懐けてきた。文字にするとさほど違いはないのだが、与える食べ物の質・・というかポテンシャルが高いのだ。
かといって高級志向というわけではない。どちらかというと、素材そのものが新鮮あるいは上質だったり調理方法が緻密だったりと、カネに物を言わせることなく料理のポテンシャルを上げるのが得意なタイプ。そのため、なんだかんだエクスキューズが入るにせよ、いつだってわたし好みの美味さと満足を提供してくれるのだ。
モチを与えられたことで、来年(日付変わって今年)一年間の彼女への忠誠を誓ったわたしは、気分よく大晦日を迎えることができた。そんな矢先に、ひょんなきっかけで久々に顔を合わせたとある友人から、小振りな手提げ袋を渡されたのだ。中を覗くと——そこには四角い容器に詰められた、美味そうなレンコンが入っているではないか。
彼女の知り合いのレンコン農家が作ったものらしいが、それだけですでに通常のレンコンよりも美味いことが確定。さらに、本来ならば採れたての状態で渡すべきところを、料理をしないわたしのために、すぐさま食べられる状態に調理した上で持参してくれたのだ。
適度な厚みにカットされたレンコンを炒め、そこへとろけるチーズをのせただけのシンプルな料理ではあるが、これがまたとんでもない美味さだった。食べやすい大きさだからなのか、わたし好みの味付けだったからなのか、はたまたチーズのアクセントが珍しかったのか・・理由は分からないが、とにかく一心不乱にがっついた。
(友人の優しい心と手作りがなせる業なんだろうな・・)
というわけで、2024年の最後を手作りのモチとレンコンで締めくくることができたわたしは、精神修行のため東京ディズニーランドへと向かったのである。
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ディズニーランドといえば、わたしとは真逆に位置する存在で、いわば陽と陰の関係にある。べつにわたしが陰キャというわけではないが、万人に対して夢を与えるアノ国の陽キャぶりには、頭が下がると同時に辟易するのであった。
それでも、足を踏み入れなければならないのであれば、覚悟を決めるのがオンナというもの。自身に「これも試練だ」と強く言い聞かせると、わたしとは異なる人種が蠢(うごめ)く地獄へと溶けていったのである。
しかしながら、どこの世界でもニンゲンが演じるのであれば根っこにはニンゲンが出るもの。たとえば、舞台俳優がいくら完璧に役を演じたとしても、額を伝う汗や肩を上下させながらの呼吸など、ヒトとして抗うことのできない生理現象が、観客を現実へと引き戻すわけで。
そして今、目の前で"船長"を演じているこの女性は、勝手な想像だが決してネアカ(根明)ではないだろう。普段は声も小さく口数の少ない、インドア派のオタクなのではなかろうか——と予想する。そんな"船長"が、スベるとわかっているギャグを連発するわけで、ふらつきながら歩く通行人を見守るかのように、わたしは彼女の一挙手一投足に神経を張り巡らせた。
なんせ乗客の大半は外国人であり、船長が発する日本語(ギャグを含む)が理解できない。そのため、「では皆さんごいっしょに・・パオーーん!!」なんて部分は、あわや船長一人が叫ぶことになりかねないため、ここは日本語の分かるわたしが協力しなければ、船内が不穏な空気で包まれてしまう。
そして、たとえ寒いギャグであったとしても「船長の任務」として遂行する必要があるならば、乗客であるわれわれ・・いや、わたしもそれに従うのが社会や組織における暗黙の了解というもの。ウケるウケないは二の次で、船長の渾身のギャグに対して爆笑で答えるのが下っ端の役目——。そんな使命を感じ取ったわたしは、とにかく船長の言動に聞き耳を立てながら、船内の雰囲気保持および船長のメンタルケアに尽力した。
(ディズニーランドが"夢の国"として成立するには、キャストのみならず来園者全員が、現実社会における"ヒト"としての常識やアイデンティティを捨て去らなければならない。そして、夢の国の治安維持に積極的に参加しなければ、瞬く間に現実へと引き戻さる脆さと儚さを併せ持っているわけだ——)
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年の瀬に、ヒトとして社会人として何をするべきかを学んだ瞬間であった。
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