生足の神無月

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(・・なぜわたしだけなんだ)

秋の涼しさを感じながら、街中を颯爽と闊歩していたわたしは、なんとなく自分だけが浮いていることに気が付いた。どこが他人の違うのかというと、足元だ。

そう、わたしは未だにビーチサンダル(正確には、リカバリーサンダル)を履いているため、当然ながら素足を晒している。今日など、長袖長ズボンで全体的に肌を隠しながらも、素足にビーチサンダルという出で立ちのため、どうも足元がおぼつかないのである。

(革靴が小指に当たりでもしたら、悶絶だろうな・・)

衣替えのタイミングとしてはバッチリの今日、道行く人々は衣服だけでなく靴までをも替えていた。ごくまれに素足にKEENを履いている者もいるが、大多数がかかとまで覆われている革靴やパンプス、もしくはスニーカーで足元を着飾っているではないか。

 

それにしても、半袖やスカートで腕や足をむき出しにしているにもかかわらず、なぜ足元をきっちり隠しているのだろうか。涼しいといっても気温は20度は超えているわけで、そこまで寒くはない。ただなんとなく「ビーチサンダルは夏の象徴」という理由から、季節先取り感だけで靴を履いているのだろう——。

 

電車に乗ると、わたしのビーチサンダルはさらに目立った。さりげなく辺りを見渡すも、ビーチサンダルどころか裸足でサンダルという乗客も見当たらない。血眼になって仲間を探してみたが、わたしが乗っている車両で素足の人間はわたししかいなかった。

(マスクしてない人数どころの話じゃないな・・)

わたしは今日、長袖のジャケットにジーパンを履いており、服装としてはドンピシャのオシャレさんだ。それなのに、足元だけが季節外れで浮いている。さらに、足の親指の爪が半分に割れており、痛々しい悲壮感すら漂うわけで。

 

夏の間はさほど気にならなかったが、多くの者が硬い靴で足を防御した今となっては、わたし以外は全員敵である。とくに満員電車に乗ろうものなら、痴漢を気にするよりもつま先の心配をしなければならない。

ゴキブリのように黒光りしたあの禍々しい革靴が、勢いよくわたしの生足を直撃でもしたらただではおかない。「ギャァァ!!」っと叫んでのたうち回ってやる、と固く心に誓っているのだから。

おまけに今日は雨が降っていたため、長い傘を持ち歩く人間が多い。そのため、傘の先端がわたしの生足を直撃しそうになることが何度もあった。

 

それにしても、人間というのは非常に脆い生き物だ。たかが足の小指一本引っかけただけで、この世の終わりのように顔を歪めて泣き叫ぶのだから。

そして今、わたしはこの界隈では最弱のポジションにいる。どんなに偉そうに息巻いても、あの硬い靴底でギュッと踏まれたらぐうの音も出ない。

 

言うまでもないが、靴というのは足を守るための必需品である。工事現場などでは「安全靴」と呼ばれる、つま先を鉄板で覆われた靴を履くが、あれは間違いなく必要な装備品である。

その昔、競艇学校(現・ボートレーサー養成所)での訓練途中に、自分の足の上にモーターを落としてしまい、指を切断した訓練生がいた。運動靴程度の強度では、さすがに40キロの鉄の塊から指を守ることはできなかったのだ。

それが、裸足にビーチサンダルなど「わたしの足をやっちゃってください」と言っているようなもの。いわば、自殺行為である。

 

そこでわたしは考えた。なぜ今日、ビーチサンダルで家を出てしまったのか。・・実はこれには理由があった。そう、何を隠そう、ただ単に靴下を履くのが面倒くさかったからなのだ。

素足でビルケンシュトックやKEENを履くのも憚られるため、裸足の季節は水洗いができるビーチサンダル(正確には、リカバリーサンダル)で過ごすと、自分の中で決めていた。そのため、季節が秋だろうがなんだろうが、素足ならばビーチサンダルしか履くことはできない。どんなに寒かろうがつま先が危険に晒されようが、靴下なしではサンダルや靴を履くことはできなかったのだ。

 

(・・それにしても、つま先が冷たいな)

——季節はもう、秋である。

 

Illustrated by 希鳳

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