時間は万人に等しく与えられる——といわれているが、一般相対性理論が証明されてからは、重力の有無で時間の進み方に変化が出ることが分かった。無論、体感することは不可能なレベルなので、エベレストの山頂で暮らす者と地下で暮らす者との時間の差は「無い」に等しいが、原子時計であればそのわずかな違いを観測できるのだそう。
とはいえ、自分自身で体感できないほとの違いを気にして生きるなど、無駄かつ無意味なので、「少しでも長生きしたいから、地底で生活する!」などという突飛な考えは推奨しない。
それにしても、主観的に感じる時の流れというのは、状況によって変化するのは事実である。振り返ってみると、幼少期や学生時代というのはあっという間に過ぎ去るわけで、子どもから大人への変化・・すなわち社会人として独り立ちするまでの「過渡期の充実感」が、時の流れを助長していたように感じる。
ちなみに、なぜこのような現象が起きるのかというと、人間の脳の機能がそうさせているのだ。たとえば、新しいことや興味のあることには自ずと意識が向くため、脳は時間経過よりも行為そのものへと注意を集中させる。その結果、時間への注意が薄れ「あっという間」に感じるわけだ。
逆に、つらいことや苦しいことは「早く終わってほしい」と思うため、行為より時間経過を気にするようになる。よって、脳の注意が時間そのものへ向かい「まだ終わらない」と感じるのである。
もちろん、脳の機能のみならず代謝や感情の状態、記憶するべき出来事の多少によっても左右されるので、どれか一つの要因のみで体感速度が変わるわけではない。
だが、ちょうど今頃になれば「もう一年が終わってしまう、時の流れは速いものだ!」と、毎年懲りずに同じことを口にしているわたしは、日々の生活に追われているというより、脳が新たに記憶するほどの出来事に遭遇していないのではないか・・と、平凡な人生を残念に思うのであった。
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このようなことをぼんやりと考えながら、わたしは静かに目をつぶって時が経つのを待っていた。
誰かに強要されているわけでもないので、今すぐ目を開けて布団から飛び起きてもいいのだが、どうせならアラームが鳴るまで「昨日」を持続させたい・・と思ったのだ。
そう、布団から出たら「今日」が始まってしまう——。いつまでも逃げ続けられないことは十分理解しているし、今日は週の始まりである月曜日だということも承知している。だがせめて、さきほどセットしたアラームが鳴るまでは「昨日」に浸っていたい。あと少しで始まる、現実という名の戦場へ送り出されるまでは、少しでも長く心身を休めておきたいのである。
そんなことを思いながら、わたしは30分後にセットしたアラームを気にしていた。
(あぁそうか・・こうやって時間経過を気にしているから、いつまで経っても鳴らないと感じてしまうのか)
今か今かとアラームを警戒するあまり、なんとも不毛な時間を過ごしていることに気が付いたわたしは、あまりに遅く感じる時の流れを忌々しく思った。どうせ同じ一分一秒を過ごすなら、時間を気にするのではなくもっと他のことへ意識を向けるべきだった・・と、わずかな後悔すら抱いて——。
(それにしても、さっきからいったい何分が経過したのだろう。30分のタイマーをセットしたんだから、さすがにもうそろそろ鳴ってもいいはずなんだが・・)
痺れを切らせたわたしは、枕元のスマホへ手を伸ばすと画面をのぞき込んだ。そして絶句した。
(い、い、一時間40分も経過しているではないかぁぁ!!!)
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こうして、わたしの一週間は慌ただしく始まるのであった。




















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