(自分の住まいとして)マンションを買うか買わないかと問われれば、間髪入れずに「買わない」と答える。
「毎月の家賃を考えたら、買ったほうが断然お得だよ」
などと軽々しく偽善者ぶった正論をかます人間は、表面上のことしか考えていない。衣食住という生活基盤の中で、「住」だけがそう簡単に変えることのできない、それでいて失敗したら大きな痛手を負うポジションにある。
たとえば、購入したマンションでポルターガイストが起きたらどうか。もしくは原因不明の不気味な音や叫び声が、毎晩聞こえてきたらどうだろうか。
・・さすがにこれは非現実的で、よく起きることとはいえない。だが、隣人がヤバい奴だったり、上下の階に住む人間がキ●ガイだったりしたら、どうすればいいのだろうか。
管理会社に連絡してどうにかしてもらう?無記名で苦情をポストに投函する?・・いずれもほぼ意味がないだろう。そのいい例がわたしの住むマンションだからだ。
管理会社に苦情を通報した場合、よっぽどのことがない限り、対象となる居住者に連絡をすることはない。その代わり、エントランスやエレベーター内に貼り紙をすることで、「仕事をした感」を示して終わりである。
「夜中に大きな音がするという苦情が、何件も寄せられています。マナーを守って気持ちよく暮らしましょう」
これを読んだ居住者のほとんどは、無関心に「ふーん」と通り過ぎる。まさか自分のことだとは思わずに。そのくらい、貼り紙を見て生活環境を正せる人間ならば、普段から音に気を付けて過ごしているのだから。
自分自身の体験談だが、下の階の居住者が夜中の2時過ぎまで大騒ぎしていたことがある。そのときわたしは、彼らの会話の内容とメンバーを勝手に想像した。その結果はこうだ。
(久しぶりに会った学生時代の友人らと、夜遅くまで話が盛り上がってしまい、しかも窓を開けたままにしていたせいで、声やテレビの音が漏れているたのだろう。・・ということは、この状況が明日も明後日も続くとは思えない。ならば今夜は大目に見てやろう)
そしてヘッドフォンで音楽を聞きながら、仕事に耽ったのである。
しかし、騒いでいる相手が恋人や夫婦で、毎晩これが続くとしたらさすがに我慢ならない。かといって直談判すれば、今のご時世トラブルになりかねない。ましてやわたしは銃所持者であるため、事件に巻き込まれたら大変なことになる。よって、無意味な張り紙で耐えるしかないのだ。
こうなった場合、マンションを購入していたならば我慢比べとなる。対象者が去るか、わたしがその状況に慣れるかのどちらかしかない。今回は「自分の住まいとして」という前提なので、他人に貸すという選択肢は考えない。つまり、自力で解決することのできない地獄が続くのだ。
これは「音」に関するトラブルだが、ただ単に「ヤバイ奴」が住んでいた場合、具体的な被害を受けていなくとも、その存在だけで不気味であり不愉快である。
自分を棚に上げて「アイツはヤバイ奴だ」などと軽々しくは言えないが、それでもソトヅラには十分気を付けているわたしは、わりとまともな人間だと思っている。
ところが2年前、我が家の隣に引っ越してきたのは、超神経質で他人との交流が苦手な男だった。さらにその恋人は、気の強いクレーマー気質な女だった。
たまたまエレベーターホールでその男と出会った時、わたしを見るなり自宅のドアに貼りつくと、同じエレベーターに乗ることを拒否された。目も合わさず、挨拶をしても無視をされる始末。まぁそういう人間もいるので、あまり気にしないように過ごしてきたが、そいつが引っ越してきてから掲示板の貼り紙がやたらと増えたのだ。
わたしはピンときた。これは女のほうが管理会社に通報しているな、と。
そこで早速、管理会社に電話をかけた。当然ながら、どこの誰かを明かすことはできないため、のらりくらりとはぐらかされたのだが、こちらも交渉には長けている。なんとなく人物像が浮かぶであろう質問と誘導で、最終的にわたしの考えがビンゴであることを突き止めた。
居住者でもない恋人のほうが、事あるごとに管理会社へ苦情を通報していたのだ。
これには管理会社もうんざりだっただろう。そもそも共同住宅なんだから、オマエらの思うようにはならない。もしもそれを望むならば、こんな安いマンションではなくもっと高価なところへ引っ越せばいいじゃないか――。
そう思っていたかはさておき、他人ばかりを正そうとして、自分自身の妥協や我慢を検討しない、視野の狭い短絡的な人間の典型である。
(なによりも、奴らが引っ越してきたばかりというのが問題だ。今までの快適な人間関係が崩壊した上に、これがあと何年続くのか・・・)
*
「何階ですか?」
たまたまエレベーターで遭遇した若者が、わたしの行き先階を尋ねた。P階であることを告げると、少し驚いた表情でこちらを見て、
「じつは僕、最近引っ越してきた山田と申します。なにかご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
と頭を下げたのだ。驚いたのはこちらである。同じフロアで引っ越しがあったなんて、自宅で引きこもっていたにもかかわらず気が付かなかった。いったいどんな魔法を使ったんだ?!
「何号室?」
「111号室です」
なんということだ。あのやっかいな隣人がここを去っていたのだ。時期的にも、2年目の更新をせずに引っ越したのだろう。そして入れ替わりで入居してきた青年は、相手の目を見て話ができる、まともな人間だった。
毎日、念を送り続けた結果だろうか。わたしの悲願が叶ったのである。
隣人がまともな人間であることが分かると、なんとも気分がいいものだ。こんなにも安らかな気持ちで夜を過ごしたことなど、この二年間で一度もなかった。
あぁ、季節の変化とともに「住」についての春が訪れたのである。
*
これからは真っ当な人間として生きていこうと、なぜかわたしも誓ったのである。
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