街宣車がゆりかごのオンナ

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「街宣車がゆりかごのオンナ」というキャッチフレーズを持つ友人がいる。

 

なんともキャッチーで魅力あふれるワードセンスだと思わないか?なぜなら、わたしが勝手に名付けたからである。

街宣車とは街頭宣伝車の略。おもに選挙活動や政治活動、企業の宣伝目的で、演説や音楽を流しながら走り回る車のことを指す。一般的には右翼街宣車のイメージが強いが、たとえば都心を走り回る「バニラ求人」なんかも街宣車だ。

 

個人的には街宣右翼の活動に興味があるので、あまりのうるささに耳を塞ぐことはある。それでも懲りずに観察を続けるあたり、もはや趣味に近いのかもしれない。

しかし、街宣車といえでも選挙カーは許せない。候補者の名前を連呼するたびに、「落選希望者」に一票入れる仕組みがあったら…と、殺意に近い嫌悪感を抱くほどである。

 

さらに、労働組合によっては街宣活動を行う団体もある。たとえば団体交渉で要求が通らなかったりすると、企業への嫌がらせ、いや、圧力をかけるために事業場付近に街宣車をとめてシュプレヒコールを行う、アレだ。

一見、行儀の悪い迷惑行為と思われがちだが、これらは憲法第28条にある「団体行動権」に基づくものであり、正当な活動である。

 

一般労働者が賃金の増額や労働環境の改善について、通常業務以外で企業側と交渉するとなると莫大な労力と時間が必要となる。よって、残念だが現状維持に甘んじるしかない。・・・とならないためにも、労働組合が存在する。

そのため、労働者に代わって企業側と様々な交渉をする立場にある彼ら彼女らは、本来、感謝されるべき存在のはず。

だが時には過激な街宣活動により、労働組合と企業との関係が悪化することもある。そして行き過ぎた活動がメディアで取り沙汰されると、一般人からの印象も悪くなり、街宣活動自体が忌み嫌われる傾向にあったりもする。

ましてや令和のいま、街宣活動は単なるパフォーマンスが形式的に残っている事実は否めない。一種のイベントとして、スケジュールに沿って淡々とこなすだけで、そこに大きな影響力は感じられないからだ。

 

それでも、そんな街宣活動で輝くオンナがいた。

 

彼女の本心がどうなのかは分からないが、少なくともわたしの友人である以上、真っ当な人間であることに違いはない。社会的なバランスにも優れており、正しいことを貫く強い心を持っている。

他人からの視線もあるので、滅多なことでは自身の職業を明かさないが、わたしはとあるきっかけで、彼女が労働組合で働いていることを知った。

そして街宣車に憧れのあるわたしは、彼女の話に釘付けになった。「あんなの、大したことないよ」と鼻で笑う友人の横顔が、まるでジャンヌ・ダルクのように凛々しく輝いて見えたものだ。

 

「子どもの頃から、父が運転する街宣車の助手席に乗っていたからね」

 

このセリフこそが、わたしのハートを奪う決め手となった。そうか、彼女はゆりかごの代わりに街宣車に揺られて育ったのか――。

ちょっと飛躍しすぎだが、そのくらい嫉妬にも近い羨望を抱いたのは間違いない。

 

街宣活動というのはリズムが重要。ただ単に声を張り上げればいい、というものではない。その場に相応しいワードチョイス、間の取り方、緩急や抑揚の付け方など、それらは文字化することが難しい伝統芸ともいえる。

未熟な組合員であれば、与えられた原稿を読み上げることで精いっぱい。だが友人は、原稿が不要であるどころか、宣伝すべき人間や事項について事前に調査し、暗記した状態で街宣車に乗り込む。そして周囲の空気を読んだうえで、発言内容の微調整まで可能なのだ。

さらに、場合によっては自らハンドルを握り、運転からマイクから一人でやりきってしまうのだから驚きである。そんな彼女の圧倒的なパフォーマンスに、後輩たちは思わず目を見張る。そこには、昭和の時代から受け継がれる匠の技が詰まっているからだ。

 

そんな彼女が、街宣車を降りるときがきた。

「もしもこの先、私が街宣車に乗るとすれば、それはURABEが選挙に出るときかな」

いたずらっぽく笑いながら、そう告げる友人。残念ながらその期待に応えることはできないが、彼女の晴れ舞台にわたしを指名してくれたことには、感謝というより感激である。

 

いつかまた、他の候補を圧倒する街宣車を見ることができたなら、それはきっと彼女が乗っているに違いない。

 

Illustrated by 希鳳

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