時は常に一定のリズムで進んでいるわけではない・・と思う瞬間はないだろうか? たとえば、高校時代の時間の過ごし方と、老いぼれて中年を迎えた今とでは、色々な意味で"時間の内容"が違うように感じるのだ。どっちが速い遅いではなく、時間の深さが明らかに違うのだ。
そんな懐かしさに目を細めながら、いや、目の前で起きた大惨事に目がくらみながら、わたしはゆっくりと時間が進む様子を眺めていた。——なんで今、こんなことになるんだ。
*
仕事がひと段落ついたので、お気に入りのソファーでゴロゴロしようと思たわたしは、飲みかけのアーモンドラテを片手にパソコンの前を離れた。そしてゆっくりとテーブルに置こうとした瞬間、アーモンドラテがこれまたゆっくりと、テーブルへと流れ落ちたのだ。
どこからともなく、サラ・ブライトマンの”Time To Say Goodbye”が流れる。象牙色の滑らかな液体がゆっくりと零れ落ちていく姿を、なんとも清々しい気持ちで見守るわたし。そして瞬く間にテーブルからフローリングへと、美しい道が広がって行く。時にはデスクやパソコンまで飛び散り、はたまたピアノの脚を染めながら、アーモンドラテは静かにその存在を広げていくのである。
(・・・オワッタ)
なにも今日の仕事が終わったわけではない。無論、ダジャレでもない。だがもはや、わたしには絶望しか残っていなかった。長時間の作業にひと区切りついたタイミングで、傷めている腰を労わる目的でソファーへダイブしたかっただけなのに、なぜ——。
数分、いや、数十分ゴロゴロすれば、気分転換もできるだろうしラストスパートへの英気を養えるはず。そう思いながら、あと一歩でソファーへ倒れ込むことができる・・というところで、わたしの小さな希望は悪夢へと変わったのだ。
自由自在にのびのびと広がったアーモンドラテを前に、声も出せずに呆然と佇むわたし。まだ半分以上は残っていたにもかかわらず、もうほとんど残っていないではないか・・。
ではなぜ、おなじ重力おなじ時間の中で、アーモンドラテはゆっくりとこぼれていったのだろうか。原因は、ソファーに座ろうとゆっくりしゃがんだところ、親指と中指で軽く支えていた紙カップが静かに傾き、まるでわざとこぼしたかのように、アーモンドラテをテーブルへと注いだのだ。
おまけに、あまりに滑らかで穏やかな流れに目を奪われたわたしは、一瞬、見とれてしまった。時間にして2秒程度だろうか、それでも確実に、わたしはこう思った。
(なんと美しい色とテクスチャーなんだろうか——)
もしもうっとりする時間が1秒短かったら、被害は半分に食い止められたかもしれない。だが信じられないほど時がゆっくりと流れ、それに伴いアーモンドラテもゆっくりと流れていったのだから、それに逆らうなど不可抗力。今のわたしにできることといえば、ただ静かに眺めることだけなのだ。
そしてふと我に返ったわたしは思った。
(なぜアーモンドラテなんだ? なぜブラックコーヒーじゃなかったんだ!)
コーヒーならば多少拭き残しがあったところで、大変なことにはならないだろう。だが、ミルク系を放置すれば腐ったりカビが生えたりするかもしれない。・・そうなったら大事である。
つまり、この広範囲を染めているミルクティー色の液体を、完全に拭き取らなければならのである。
思い返せば10秒前、わたしはパソコンを閉じてソファーへ向かうために立ち上がった。そしていよいよソファーでくつろげる・・と思った瞬間に、なぜかアーモンドラテが静かにこぼれ落ちたのだ。
繰り返しになるが、仕事で疲れた体を休めるべく、ソファーでくつろごうと思ったのだ。にもかかわらず、とてつもなく面倒な仕事を作り出してしまったではないか。
テーブルの上はまだしも、ピアノの脚や干し草でできた仕事用の椅子は、完全に拭き取ることはできない。とくに、干し草に染み込んだアーモンドラテが腐り出したら、細かい虫が発生して大変なことになるかもしれない——。
もうなにもかも投げ捨てて、ふて寝をしたい気分である。だが、この状態を放置できるほどの勇気はない。
(仕方ない、拭くか・・・)
しばらくはアーモンドラテと距離を置こうと思う。
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