事件は駅構内のエスカレーターで起きた——。
場合によっては刑法第176条「不同意わいせつ罪」にあたる行為かもしれない。だがなぜかその瞬間、わたしとオトコは時が止まったかのように互いに見つめあった。正確には、物珍しさに目を奪われたとでもいおうか。
とにかく、一瞬の出来事であったにもかかわらず、二人の脳内がリンクしたかのように互いの気持ちが通じ合ったのだから不思議である。
・・あぁ、人間とは奇妙な生き物だ。
*
エスカレーターは階段状の昇降装置であり、安全性の確保からも歩行禁止とされている。だが暗黙の了解で、左側は立ち止まる列、右側は先を急ぐ人の列として勝手に認識されていたりもする。ちなみにこの左右差について、なぜか関西とイギリスでは逆なので気を付けなければならない。
とはいえ、たとえば左半身に麻痺がある人にとっては、右側の手すりにつかまることで体の安定を保てる。そのため、右側でジッと立っている人がいたとしても、舌打ちしたり冷ややかな目で睨んだりしてはならない。
そもそも日本では、エスカレーターは立ち止まって乗るものであり、地域によっては条例で定められている。よって、むしろスタスタと歩いている人間こそ危険人物として睨まれるべきなのだ。
このようにマナーを重視されるエスカレーターだが、電車の乗り換えを急ぐわたしは、右側が綺麗に空いている上りエスカレーターを見上げていた。左側も人の数はまばらであり、わたしが歩いて上ったところで誰かに迷惑をかける可能性は低い。
無論、リスクだけでなくマナーの観点からも歩行禁止とされているわけで、人が少ないからといってマナー違反を犯してもいいわけではない。どこをどう見ても、自動車もバイクも歩行者も見当たらないのに、信号が赤ならば停止しなければならないのと同じで・・いや、こちらは道路交通法で定められた要件だから、マナーではなくルールだった。
とにかく、無用なトラブルを避けるためにも、エスカレーターは大人しく立って乗るのが正解なのだ。
だが、時間というものがいかに貴重でいかに無駄にできないかを知っているわたしは、わずか数十秒の違いかもしれないが先を急ぎたかった。しかも人間の数は・・・四人。彼らの横を通り過ぎる際に、十分注意を払いゆっくりと通過すれば大丈夫だろう——。
こうしてわたしは、エスカレーターのステップに右足を載せた。続いて左足、右足、左足と、交互に足を踏み出しながらゆっくりとエスカレーターの右側を上っていった。
そしていよいよ、後頭部の薄い中年男性の横を通り過ぎようとした瞬間——、
「あっ!! す、すみま・・・せ・・ん?」
オトコは目を丸くして、焦りと驚きが瞬時に交わったかのような表情で謝罪をした。いや、謝罪の最後は疑問符がついていたので、わたしに質問をしたのだろうか。
なんとこのオトコ、わたしの胸を触ったのだ。厳密には、背後の気配に気がつかなかったオトコが、自身のショルダーバッグに大きく手をかけた瞬間、タイミング悪くわたしが横を通過したのだ。その際に、オトコの肘がわたしの胸に突き刺さったのである。
女性の胸をエルボープッシュするなど、断じて許されない。言い換えれば、年頃の女性のオッパイを肘で弄んだわけで、運が悪ければ犯罪行為である。これが社内ならば「セクハラ!」と騒がれかねないわけで、相手がわたしで命拾いしたな、ジジィよ。
だが目が合った瞬間、オトコは恥じらいと焦りの他に「ん?」という微妙な表情だったことを、わたしは見逃さなかった。そして胸を弄ばれたわたし自身も、胸というか大胸筋というか、いわゆるオッパイよりもやや上方に肘が当たったわけで、痛くも痒くもないことに気が付いた。
(お、おれは今、いったい何に触れたんだ——?)
(おまえは今、わたしの大胸筋を肘で突いたのか?)
瞬時に互いの脳内がシンクロする。・・そう、われわれは同時に「オッパイに触れていない」ということを悟ったのである。
女性のオッパイに触れたのであれば、土下座をしてでも許しを請わなければならない。しかし肘が当たったのは、女の胸とは思えないほどの立派な筋肉だったわけで、そこまでがむしゃらに謝罪する必要もない。とはいえ、一応オッパイ付近に肘を突いたわけで、とりあえずオッパイに触れたテイで謝るほうが穏便に済むのかもしれない——。
そんなことを考えているであろう表情のオッサンと、時間にして一秒、わたしは見つめ合ったのだ。
「なんだよ、その怪訝そうな顔は?」
出かかった言葉をグッと飲み込むと、わたしは先を急ぐべく再び歩き出したのである。
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