けじらみのとぶ頃に

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ピアノの練習中、楽譜の上を極小生物が一匹、ノコノコ通過するのを目撃した。

 

虫といえるのか、この小ささは。

人間界のメジャーでは測れないほどの小ささで、あえて例えるなら、

「スマホで入力する読点(、)より小さい」

という感じ。

 

色は半透明の白色で、頭や手足がついているかどうかも確認できない小ささ。

とにかく、微細な半透明の白い読点が、奴なりの早足で楽譜を横切ろうとしている。

 

わたしは虫が嫌いなわけではない。

蜘蛛はまったくダメだが、それはわたしの前世がハエだったからに他ならず、その他の虫はそこまで嫌いではない。

むしろゴキブリなど、どこか親近感すら湧きつつある。

 

だがこの微細な読点は、記憶に埋もれていたある友人の体験談をよみがえらせた。

 

「ナンパした女の子と遊んだ翌日、股間が痒くて痒くて。見たらちっちゃい虫がピョンピョン飛んでてさ」

 

このカミングアウトには驚いた。驚いたというよりドン引きした。

 

「ケジラミっていうの?あいつらカニみたいなハサミ持ってて、それが毛穴にグサッと刺さってたんだよね」

 

想像したくもないが、あまりにリアルで分かりやすい描写のため、見たことも会ったこともないケジラミが脳内で生成される。

 

ケジラミはとても小さく、色は白っぽい黄褐色。そいつにカニのようなハサミが付いており、陰毛の上をピョンピョン飛ぶらしい。

 

ーーなんたるホラー。不気味でおぞましい。

 

現代において、ケジラミなんて生物が存在するのか?

少なくともわたしの中では、小林多喜二の「蟹工船」の中でしか、ケジラミというやつは登場しない。

 

そして過去の話とはいえ、友人の股間に寄生したことがあるとは、何たる身近さよ!

 

待て待て、落ち着け。そうは言っても所詮は他人事、

「へー、そうだったんだ」

で流せばいいじゃないか。なにもこだわる必要などない。

 

そう、その通りだし、そんなことは分かっている。

だがあまりに強烈なイメージがこびりついてしまい、流そうにも流せなくなってしまったのだ。

 

ちなみに友人はその後、

「当時の彼女に怒られながら剃毛してもらい、パウダーをポンポンしたらケジラミは消えた」

のだそう。

案外、簡単にいなくなるものなんだな・・。

 

とにかく、この忘れかけていたケジラミという存在が、いま目の前をいそいそと通過する「微細で半透明な読点」のせいで、再び呼び起こされたのだ。

 

ーーしかしなぜ微細な生物が、こんなところを歩いてるんだ?

 

外から入ってきた感じではない。この室内で生まれた気がする。

マンションの一室とはいえ、玄関やベランダの他に窓もあれば排水溝もあり、外部と繋がる箇所はいくらでもある。

虫の一匹や二匹、住み着いていたって不思議ではない。

 

だが、この手の微細な生物は外部から侵入したわけじゃない。絶対に室内で発生しているーー。

そんな根拠のない、確固たる自信がわたしにはあった。

 

思い当たる節といえば、DIYで設置した本棚に使われている、1×4(ワンバイフォー)の木材だ。

 

都内のホームセンターで購入したため、防虫剤をしみ込ませるなど最低限の対策はしてあるはず。

だが必ずしも完璧に駆除できていない可能性もあり、この木材の他に原因が見当たらない以上は疑うべきだろう。

 

とは言えこれはケジラミではないし、わたしに危害を加えるわけでもない。ただ「不気味なイメージ」を想起させるだけで。

 

ーーそうだ、考え方を変えよう。

こんな微細な生物が平和にノコノコ歩き回れる環境ということは、すなわち、我が家は居心地の良い環境であることを示している。

言い方を変えれば、異次元のレベルで最高の部屋ということだ。

 

人間のみならず、虫までもが楽しく暮らせる環境などそうないだろう。

それどころか、遭難した際は虫や動物が飲む水を人間も飲むわけで、虫が生存するということは、生きられる環境の証となる。

 

そもそも、わたしの身体が痒くなることもなければ、咳やくしゃみが出ることもない。

つまり何一つ問題は起きていないのだ。

 

よって、この微細で半透明な読点のごとき生物が、元気に楽譜の上を移動しているということは、わたしにとっても当然、良いことに違いないというわけだ!

 

 

マインドコントロールを終えた後、わたしはガムテープの粘着面を外にして、ぐるっと指に巻いた。

そしてどこかへ向かおうとする微細な生物をペタッと貼り付け丸めると、ゴミ箱へと投げ捨てた。

 

これはケジラミではない。

カニの爪も付いてないし、ピョンピョン飛びもしない。ただノコノコ歩いていただけの、無害な生き物であることは間違いない。

 

だがどうしてもケジラミとやらのイメージが頭に焼きついており、この微細で半透明な生物とリンクすることで、恐怖と憎悪がよみがえるのだ。

 

無駄死にしたくなければ、二度と楽譜を横切らないでくれ。

 

こちらも出来る限り、無駄な殺生などしたくないのだから。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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