誰かに対して「優しいね」と言うとき、どういうつもりでその言葉をかけるだろうか。
暇人であるわたしは優しさの定義について、友人と意見を交わした。
*
わたしはそもそも「優しさ」というものは存在しないと考える。
たとえばどんな行為が優しいのか。
お年寄りが電車に乗ってきたら席を譲ること?
体調不良の友人を見舞うこと?
空腹の人におにぎりを半分あげること?
もしこれらが優しさならば、それは間違いだ。これらの行為はむしろ「当たり前」であり、優しさなんかではない。
優しい・優しくない以前に、なにか勘違いをしているように思う。
*
友人が定義する優しさとは「余裕」なのだそう。
「こちらに余裕さえあれば、対応が柔軟になる。それが相手にとっては『優しい』と感じるんだ」
なるほど、それは確かに一理ある。
だが自分に余裕があろうがなかろうが、その優しさの根幹は「当たり前」でできている。
そしてわたしが引っかかった些細な違和感は、この「上から目線」だった。
もしわたしが何らかのトラブルに見舞われ、友人から優しくされたとしよう。
「あぁ、なんて優しい人なんだ。ありがとう!」
と、心の底からその優しさに感謝する。
ーーなんてことはあり得ない。
もちろん状況によるが、もし助けてもらったのならば、
「助けてくれてありがとう」
となるし、情けをかけられたのならば、
「申し訳ない、だけどありがとう」
となる。
いずれも友人に対して「優しい」と感じることはなく、ある種当たり前の対応をされたことに感謝するだけだろう。
ではなぜ、些細な違和感を覚えたのか。
それは、完全に見下されているからだ。
わたしの不手際や落ち度でミスをした時、それに対して優しい言葉と態度で許されたとしよう。それはつまり、
「おまえに期待などしていない」
という友人からのメッセージであり、わたしはそこまで重要視されていない証だ。
この発言に怒りや不快を感じないわけがない。
つまり責任ある仕事や役割を任された時、そのミスをサラッと許されたのならば、それは相手が優しいからではない。
自分がどうでもいい存在と思われているから、サラっと流されたのだ。
なぜなら、相手には「余裕」がある。つまり何らかのストックや対処法が確保できているからこそ、優しい対応になるのだ。
「心の広い、優しいひとだな」
ーー違う、断じて違う。
相手はプランBを用意してあるからこそ、笑顔で温かい言葉をかけることができるのだ。
*
もう一つ、必然的に「優しくなってしまう状況」というのがある。
それは、相手に対して後ろめたい気持ちがある時だ。
たとえば不義理を働いたとき、謝罪や懺悔の気持ちから優しさをみせることがある。
だがこれも、先述した状況と実は似ている。
本音がそこにないからこそ、「優しい」というテイのいい歪んだ形容詞に落ち着くのだ。
義理を欠いた結果、本来すべき行動や対応の代わりに、優しさというオブラートに包んだまでのこと。
やんわりと矛先を変えているだけで、本音はそこにない。
結局のところ、優しい行動・言動の裏には本音が隠されている。本音というか、本来すべき行動、あるべき姿がある。
よって、
「この人、優しいな」
と感じた時は、真の狙いを探るべきだ。
純粋な優しさなど、この世に存在しないのだから。
Illustrated by 希鳳
コメントを残す