優しさの向こう側

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誰かに対して「優しいね」と言うとき、どういうつもりでその言葉をかけるだろうか。

 

暇人であるわたしは優しさの定義について、友人と意見を交わした。

 

 

わたしはそもそも「優しさ」というものは存在しないと考える。

たとえばどんな行為が優しいのか。

 

お年寄りが電車に乗ってきたら席を譲ること?

体調不良の友人を見舞うこと?

空腹の人におにぎりを半分あげること?

 

もしこれらが優しさならば、それは間違いだ。これらの行為はむしろ「当たり前」であり、優しさなんかではない。

 

優しい・優しくない以前に、なにか勘違いをしているように思う。

 

 

友人が定義する優しさとは「余裕」なのだそう。

「こちらに余裕さえあれば、対応が柔軟になる。それが相手にとっては『優しい』と感じるんだ」

なるほど、それは確かに一理ある。

 

だが自分に余裕があろうがなかろうが、その優しさの根幹は「当たり前」でできている。

そしてわたしが引っかかった些細な違和感は、この「上から目線」だった。

 

もしわたしが何らかのトラブルに見舞われ、友人から優しくされたとしよう。

「あぁ、なんて優しい人なんだ。ありがとう!」

と、心の底からその優しさに感謝する。

 

ーーなんてことはあり得ない。

 

もちろん状況によるが、もし助けてもらったのならば、

「助けてくれてありがとう」

となるし、情けをかけられたのならば、

「申し訳ない、だけどありがとう」

となる。

 

いずれも友人に対して「優しい」と感じることはなく、ある種当たり前の対応をされたことに感謝するだけだろう。

ではなぜ、些細な違和感を覚えたのか。

 

それは、完全に見下されているからだ。

 

わたしの不手際や落ち度でミスをした時、それに対して優しい言葉と態度で許されたとしよう。それはつまり、

「おまえに期待などしていない」

という友人からのメッセージであり、わたしはそこまで重要視されていない証だ。

 

この発言に怒りや不快を感じないわけがない。

 

つまり責任ある仕事や役割を任された時、そのミスをサラッと許されたのならば、それは相手が優しいからではない。

自分がどうでもいい存在と思われているから、サラっと流されたのだ。

 

なぜなら、相手には「余裕」がある。つまり何らかのストックや対処法が確保できているからこそ、優しい対応になるのだ。

 

「心の広い、優しいひとだな」

 

ーー違う、断じて違う。

 

相手はプランBを用意してあるからこそ、笑顔で温かい言葉をかけることができるのだ。

 

 

もう一つ、必然的に「優しくなってしまう状況」というのがある。

それは、相手に対して後ろめたい気持ちがある時だ。

 

たとえば不義理を働いたとき、謝罪や懺悔の気持ちから優しさをみせることがある。

 

だがこれも、先述した状況と実は似ている。

 

本音がそこにないからこそ、「優しい」というテイのいい歪んだ形容詞に落ち着くのだ。

義理を欠いた結果、本来すべき行動や対応の代わりに、優しさというオブラートに包んだまでのこと。

 

やんわりと矛先を変えているだけで、本音はそこにない。

 

結局のところ、優しい行動・言動の裏には本音が隠されている。本音というか、本来すべき行動、あるべき姿がある。

よって、

「この人、優しいな」

と感じた時は、真の狙いを探るべきだ。

 

純粋な優しさなど、この世に存在しないのだから。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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