タイトルで釣って読者増やしてチェキ会を開くのが私の夢

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「誰が書いたのか…っていうのも、重要な要素だと思いますよ」

旧帝大卒、高橋一生似の容姿を持つ後輩が、真面目な顔でそう言い放った。ことの発端は、わたしの書くコラムを読んだ人はほぼ全員「面白い」と言ってくれるのに、なぜ世間一般にはウケないのか?という問題提起がきっかけとなった。

とどのつまりは「ただ単に文才がないからではないか?」と自己分析したわたし。なぜなら「良いものは良い!」と、黙っていても評価される世の中であることは間違いないのに、わたしが毎日リリースしているこのコラムはまったく人気が出ないからだ。

 

文章に限らず、音楽や芸術も同じだろう。数年前、「うっせぇわ」というセンセーショナルな曲を引っさげて、彗星の如く現れた女子高生シンガーの「Ado」など、顔出しもしていないのに、独特の声質と歌い方だけで一世を風靡した代表である。

ある程度の彼女の情報は披露されたにせよ、顔の可愛さやスタイルの良さといった、ビジュアルとはまったく関係のない部分で、見事に実力が評価されたのだから羨ましいし素晴らしい。

ということは、やはり良いものは良いわけで、わたしの書くコラムなど良い悪いの土俵にも上っていないということになる。

 

「アタシのコラムを面白いって言ってくれるのは、みんなアタシを知ってる友達なんだよね。ごくまれにアタシを知らない人もいるけど、9割9分アタシを知ってるんだ」

たまに柔術の試合や出稽古で、初対面の人から「ブログ読んでます!」と声をかけてもらうことがある。そんな時、この人は貴重だ!と拝まずにはいられない。だがこれも、じつは裏でわたしを知っているに等しい。

女子の少ない柔術界隈で、わたしを知らない人があまりいないことからも、直接的ではないがSNSなどを通じて「わたしを知っている」という前提がある。やはり、わたしを知っているからこそ、面白いと言ってくれるだけなのだ——。

 

そうぼやいた時に、後輩が冒頭のセリフを吐いた。

彼をディスるのもなんだが、見た目は悪くないのに、如何せんファッションセンスがゼロ、いや、マイナスの後輩。そのくせ「オーバーサイズ」とか「バレンシアガ」とか、オシャレさん御用達の語彙力を兼ね備えているから厄介である。

さらに衝撃の事実となったのは、自身の衣服をブックオフで買っているというから驚きである。

(ブックオフは、本を売り買いする店じゃなかったのか・・・)

そんなカルチャーショックを受けながらも、後輩の発言に耳を傾けた。

 

「今のご時世、コラムニストやコメンテーターという職業の人たちは、顔や人となりとセットで評価されているように思います。ひと昔前みたいに、性別も年齢も分からない誰かの書いた作品がブレイクする、というだけではないと思うんですよ」

服装のダサさが鼻につくが、言っていることはまともで核心をついている。

 

たしかにその通りなのだが、だからといってわたしは自分を前面に押し出すつもりは毛頭ない。そもそも、売れるような美貌も容姿も歌声もキャリアもないのだから、出たところで胡散臭さ満載で「終了」となる。

しかも、自分の脳内イメージを文字にしているだけで、社会から求められるような作品に寄り添う気持ちもないことから、需要がないのは明らかなのだ。そんな「需要と供給」の仕組みが分かっているのならば、多少なりとも迎合すればいいのに、それができないあたりが幼稚で馬鹿な所以である。

 

とはいえ、毎日ある程度のボリュームで文字を排出するには、いかにストレスなく指を動かせるか…というのが重要な要素となる。他人の趣向に合わせて文章を書こうとすれば、それはとてつもなく不快なストレスとなり、わたしは潰れるだろう。

このペースを維持するには、勝手気ままにほぼ無意識に指が動く内容でなければ無理なのだ。つまり、キッチリと低空飛行を続ける現状こそが最高高度であり、悩んだところで答えは出ないのである。

 

 

「こんなこと言ったら申し訳ないけど、たまにタイトルで惹かれたときなんかに読ませてもらってるよ」

お好み焼きを食べながら、とある友人が告白してくれた。無論、毎日読んでくれているとは思ってもいないし、たまにでも読んでもらえるだけでも嬉しい限りである。

しかし、「たまに」読んでくれるきっかけが「タイトル」にあるということに、新たな学びを覚えた。当たり前のことだが、戦いはタイトルから始まっているのだ——。

 

内容がよければ多くの人に読んでもらえる、というのはあながち間違ってはいないだろう。だが、その一ページを開くまでに必要な努力があるとすれば、当然ながら「タイトル」と「サムネイル」しかないのだ。

(わたしには、その努力が足りないのかもしれないな・・)

とはいえ、手前味噌ではあるがサムネイルは自信がある。なぜなら、大阪で美容師をしつつ独特のイラストを世に放出している、希鳳(きほう)さんの作品を使わせてもらっているからだ。実際のところ、直接お会いしたこともない希鳳さんだが、画風から彼のセンスや人となりがビシビシ伝わってくるわけで、それだけで十分である。

ということはやはり、作品こそすべてなのではなかろうか——。

 

いやいや、残すはタイトルの部分だ。わたしには「タイトル職人」の異名を持つ友人がいる。だが奴は気まぐれな猫のような人間のため、ピンポイントに依頼をしない限りは捕まえることが難しい。

おまけに、出来上がったタイトルが放送禁止用語だったり倫理規定に引っ掛かりそうだったりと、まともに充てられない場合が多いゆえに使い勝手が悪いのだ。

そもそも、深夜3時半に「コラムが書けたから、タイトルつけて!」などと言われても、大方の人間は寝ていることだろう。

 

 

そんなこんなで、深夜だか早朝だか分からない時間になってしまったが、読者が少なかろうが評価されなかろうが、わたしは今日もコラムを書く。

需要もなにも関係ない。自己満足で成り立っているオウンドメディアなのだから、舵取りは自分でやるしかないのだ。

そしてこれこそが、AIには真似することのできない「手作業の恐ろしさ」なのである。わたしの脳内で描く奇妙さ・意味不明さは、AIには決して手の届かない領域だからだ。

 

そんなこんなでいつかブレイクしたら、サイン会やチェキ会を開くのが夢なのである。

 

Illustrated by 希鳳

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