人ひとりがようやく歩けるほどの狭い通路を進む。足取りは重く、憂鬱な気分は増すばかり。
前を歩くは作業服のオッサン。くたびれた古いリュックが肩からずり落ちかけている。
「残りの人生、夢も希望もあったもんじゃない」
と、煤けた背中が語っている。
後ろを振り返ると、大きなゴミ袋を下げた小汚い男がノソノソと向かってくる。
さらによく見ると、なにか黄色い物をポロポロこぼしている。
ーー粉々になったカールだ。
袋が破れ、そのすき間からカールがこぼれ落ちているのだ。おかげで通路はカールまみれになっている。
ーーまぁ仕方ない。お前らはこの船以外に行く場所なんてないんだから。
そう、わたしは今日、船に乗る。
*
出航前から船は大きく揺れている。海が荒れているのだ。
フラつく足元に気を取られながらも、船内へと押し込まれる。
ーー蟹工船
誰に言われるでもなく、この言葉が自然と口を突いて出た。小説に登場しそうな乗船客の面々が、より一層、言葉の信ぴょう性を高めたのだろう。
荷物を転がしながら部屋へとたどり着く。窓のない薄暗く狭い部屋だ。
ため息をつきながらスマホを見ると圏外。そう、船内はほぼ圏外なのだ。
――今どき電波が届かないとは、やはりこれは現代版・蟹工船なのか。
天を仰げば見渡す限りの広い空。邪魔するものなどなにもない。
それでもわたしは、電波を受け取ることができない。
陸側の甲板ではたまに電波が届くが、船内では絶望的。船というものが巨大な鉄の塊だからなのだろうか。
とにかく、強制的にデジタルデトックスを強いられることになる。
*
夕飯は20時まで。食堂には大勢の出稼ぎ労働者が集まる。
彼らに負けじとわたしも列に並ぶ。そして自衛隊方式で小鉢やご飯を受け取ると、我先にテーブルへと散っていく。
出稼ぎたちは酒をかっくらい、もうすでに出来上がっている赤ら顔もチラホラ。
満足げにウンウン頷きながら、ちびちびとウイスキーを舐めるニッカボッカ。
つまようじを歯に突き刺し、安いワインをグビグビ煽るステテコ。
食堂のおばちゃんの目を盗み、勝手にビールを注いでは逃げ戻るツルツル頭のヒゲ。
こいつらとわたしは今、同じ立場でこの船に乗っている。
とにかく生き延びなければならないーー。
そういう運命共同体であることに、変わりはないのだ。
*
急かされるように食堂を後にすると、船内で唯一の安らぎとなる風呂へと向かった。
出稼ぎどもは千鳥足で大浴場へとなだれ込んで行く。
――めんどくさいから、脳貧血起こして死ぬなよ。
女風呂は空いていると思いきや、のれんをくぐると出稼ぎ女労働者で溢れかえっている。
ほとんどの女は太っており、浅黒い肌が光る。日ごろから肉体労働に勤しんでいる証だ。
そして、重力に耐えきれず垂れ下がった尻と乳を派手に揺らしながら、遠慮なく湯船へと飛び込んでいく。
その様子を傍目に、わたしは隅っこから浴槽に滑り込んだ。窓の外には黒い大海原が広がる。さらに先には微かに見える陸の灯。
――あぁ、陸に戻りたい。海の上はもう嫌だ。
時化の揺れが風呂の湯を押し動かす。まるで海に浸かっているみたいだ。
湯船の荒波に揉まれながら、わたしは悟った。
――これなら船酔いしないぞ。
*
それにしても船が揺れる。酔っぱらった出稼ぎどもがゲーゲー嘔吐している。
――だから言わんこっちゃない。
真夜中の海を拝もうと、わたしは甲板へ出た。引き込まれそうな濃紺の海水に、くすんだ白波が狂ったように躍る。
どこをどう見ても真っ暗な海しか見えない。というか、何も見えない。
ふと足元を見ると、一匹の犬が座っている。パグだ。
どこから迷い込んだのか、小汚いパグが舌を出しながらこちらを見上げる。
まさか出稼ぎの誰かが連れ込んだのか?そんなはずはない、パグは金のかかる犬だ。貧乏人の手に負える玉じゃない。
すると突然、船内への出入り口が開き一人の男が現れた。出稼ぎ労働者を取りまとめる、「監督」と呼ばれる人物だ。
「すみません、私の犬です」
男は頭をかきながら小走りで駆け寄る。そしてデッキに落ちているリードを拾うと、そそくさと船内へと消えていった。
――あいつにも人間らしいところあるんだな。
そしてまた一人、わたしは暗い海へと視線を戻した。
*
早朝から大音量の船内放送で叩き起こされる。
ーーお勤めの時間、か。
風に当たりに甲板へ出ると、海上は霧まみれで真っ白。美しくもなければ感動もない。
仕方なくわたしは朝風呂を浴びに大浴場へ向かう。
出稼ぎ労働者らが朝飯にありつくこの時間帯、誰もいない大浴場は気持ちがいい。
サッパリしたわたしは、ふと逆立ちをしてみようと思い立つ。普段からやらないことを急にやってみたくなるのが、船上の不思議というもの。
身体を拭くのもそこそこに、わたしは脱衣所で颯爽と倒立をした。
久々すぎて手首が痛い。しかし痛みを感じられることは幸せだ。
指先を見つめていた視線を正面に向けると、そこには一人の女労働者が立っている。お互い無言で見つめあう。
ーーわたしは全裸で逆立ち、女は着衣のままで直立不動。
逆立ちぬ、いざ生きめやも。
荒れた海で静かな時が流れる。
(完)
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