逆立ちぬ  URABE/著

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人ひとりがようやく歩けるほどの狭い通路を進む。足取りは重く、憂鬱な気分は増すばかり。

 

前を歩くは作業服のオッサン。くたびれた古いリュックが肩からずり落ちかけている。

「残りの人生、夢も希望もあったもんじゃない」

と、煤けた背中が語っている。

 

後ろを振り返ると、大きなゴミ袋を下げた小汚い男がノソノソと向かってくる。
さらによく見ると、なにか黄色い物をポロポロこぼしている。

ーー粉々になったカールだ。

袋が破れ、そのすき間からカールがこぼれ落ちているのだ。おかげで通路はカールまみれになっている。

 

ーーまぁ仕方ない。お前らはこの船以外に行く場所なんてないんだから。

 

そう、わたしは今日、船に乗る。

 

 

出航前から船は大きく揺れている。海が荒れているのだ。

フラつく足元に気を取られながらも、船内へと押し込まれる。

 

ーー蟹工船

 

誰に言われるでもなく、この言葉が自然と口を突いて出た。小説に登場しそうな乗船客の面々が、より一層、言葉の信ぴょう性を高めたのだろう。

 

荷物を転がしながら部屋へとたどり着く。窓のない薄暗く狭い部屋だ。

ため息をつきながらスマホを見ると圏外。そう、船内はほぼ圏外なのだ。

 

――今どき電波が届かないとは、やはりこれは現代版・蟹工船なのか。

 

天を仰げば見渡す限りの広い空。邪魔するものなどなにもない。

それでもわたしは、電波を受け取ることができない。

 

陸側の甲板ではたまに電波が届くが、船内では絶望的。船というものが巨大な鉄の塊だからなのだろうか。

 

とにかく、強制的にデジタルデトックスを強いられることになる。

 

 

夕飯は20時まで。食堂には大勢の出稼ぎ労働者が集まる。

彼らに負けじとわたしも列に並ぶ。そして自衛隊方式で小鉢やご飯を受け取ると、我先にテーブルへと散っていく。

 

出稼ぎたちは酒をかっくらい、もうすでに出来上がっている赤ら顔もチラホラ。

 

満足げにウンウン頷きながら、ちびちびとウイスキーを舐めるニッカボッカ。

つまようじを歯に突き刺し、安いワインをグビグビ煽るステテコ。

食堂のおばちゃんの目を盗み、勝手にビールを注いでは逃げ戻るツルツル頭のヒゲ。

 

こいつらとわたしは今、同じ立場でこの船に乗っている。

とにかく生き延びなければならないーー。

 

そういう運命共同体であることに、変わりはないのだ。

 

 

急かされるように食堂を後にすると、船内で唯一の安らぎとなる風呂へと向かった。

 

出稼ぎどもは千鳥足で大浴場へとなだれ込んで行く。

――めんどくさいから、脳貧血起こして死ぬなよ。

 

女風呂は空いていると思いきや、のれんをくぐると出稼ぎ女労働者で溢れかえっている。

ほとんどの女は太っており、浅黒い肌が光る。日ごろから肉体労働に勤しんでいる証だ。

 

そして、重力に耐えきれず垂れ下がった尻と乳を派手に揺らしながら、遠慮なく湯船へと飛び込んでいく。

 

その様子を傍目に、わたしは隅っこから浴槽に滑り込んだ。窓の外には黒い大海原が広がる。さらに先には微かに見える陸の灯。

――あぁ、陸に戻りたい。海の上はもう嫌だ。

 

時化の揺れが風呂の湯を押し動かす。まるで海に浸かっているみたいだ。

 

湯船の荒波に揉まれながら、わたしは悟った。

――これなら船酔いしないぞ。

 

 

それにしても船が揺れる。酔っぱらった出稼ぎどもがゲーゲー嘔吐している。

――だから言わんこっちゃない。

 

真夜中の海を拝もうと、わたしは甲板へ出た。引き込まれそうな濃紺の海水に、くすんだ白波が狂ったように躍る。

どこをどう見ても真っ暗な海しか見えない。というか、何も見えない。

 

ふと足元を見ると、一匹の犬が座っている。パグだ。

どこから迷い込んだのか、小汚いパグが舌を出しながらこちらを見上げる。

 

まさか出稼ぎの誰かが連れ込んだのか?そんなはずはない、パグは金のかかる犬だ。貧乏人の手に負える玉じゃない。

 

すると突然、船内への出入り口が開き一人の男が現れた。出稼ぎ労働者を取りまとめる、「監督」と呼ばれる人物だ。

「すみません、私の犬です」

男は頭をかきながら小走りで駆け寄る。そしてデッキに落ちているリードを拾うと、そそくさと船内へと消えていった。

 

――あいつにも人間らしいところあるんだな。

 

そしてまた一人、わたしは暗い海へと視線を戻した。

 

 

早朝から大音量の船内放送で叩き起こされる。

ーーお勤めの時間、か。

 

風に当たりに甲板へ出ると、海上は霧まみれで真っ白。美しくもなければ感動もない。

 

仕方なくわたしは朝風呂を浴びに大浴場へ向かう。

出稼ぎ労働者らが朝飯にありつくこの時間帯、誰もいない大浴場は気持ちがいい。

 

サッパリしたわたしは、ふと逆立ちをしてみようと思い立つ。普段からやらないことを急にやってみたくなるのが、船上の不思議というもの。

 

身体を拭くのもそこそこに、わたしは脱衣所で颯爽と倒立をした。

久々すぎて手首が痛い。しかし痛みを感じられることは幸せだ。

 

指先を見つめていた視線を正面に向けると、そこには一人の女労働者が立っている。お互い無言で見つめあう。

 

ーーわたしは全裸で逆立ち、女は着衣のままで直立不動。

 

逆立ちぬ、いざ生きめやも。

 

荒れた海で静かな時が流れる。

 

 

(完)

 

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