消える印影

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ーーハンコを完全に不要にしてもらいたい、今すぐ。

 

そう思いながら、みるみる流れていく文字と印影を眺める。為す術もなくただ見守るだけの状況で。

 

 

書類の申請に某所を訪れた。

窓口へ提出する前に、わたしは入り口の横にある小さなテーブルを使い、申請書類へ「提出日」の記入を始めた。

当然のことながら、提出日当日の日付を記入しなければならないので、毎回ここを空欄にしておき、現地で最終確認を兼ねて埋めるようにしている。

 

全ての書類に「日付欄」があるあため、何枚も記入をしなければならず、小さなテーブルだと書きにくい。

だが、バインダーもなければ他にテーブルらしきものも見当たらず、「膝の上で書いて穴をあけるよりはマシだ」と思い、せっせと2021/5/17という数字を書き続けた。

 

シューッ

 

か細いせせらぎのような音が微かに聞こえた。だが気にも留めず、日付の記入を急ぐ。

そして書類をめくろうとした瞬間。書いたばかりの数字の上にツツッと液体が流れてきた。

 

???

 

細流を伝って目を上のほうへやると、なんとそこには大洪水が起きていたのだ。

書類の紙面上に大きな水たまりができ、さらに下の書類へとじわじわ浸水している。

 

ーー理由を説明しよう。

「入り口の小さなテーブル」というのは、入室時にアルコール消毒をするためのボトルが置いてある台のこと。

その台の隅っこを使い、書類に日付の記入をしていたのだ。

 

設置されている消毒液は手をかざすとセンサーが反応し、スプレーノズルからアルコールが噴霧する仕組みになっている。

そしてわたしは、数字を記入することに必死のあまり、書類がセンサーの真下に入り込んだことに気が付かなかった。

 

仕事熱心で真面目なセンサーは、自分の下に何か(おそらく手だろう)が現れたため、いつも通り「シュッ」と一噴きする。しかも今回に限って、「シュッ」ではなく「シューッ」だった。

もしかすると、センサーが反応する間は液体が出続ける仕組みなのかもしれないが、結果として大量のアルコールが書類に噴霧された。

 

さらに悲惨なのは、このアルコールミストは軽くフワフワした霧状ではなく、水分量が豊富な重たい小雨だったため、紙に滲み込まない余剰分は「小川」となって下方へ流れていく。

こうして、わたしの視界に液体が現れたのだ。

 

だがその時、恐怖の事件が起きた。

 

(なにっ!!印影が消えていく!!)

 

なんと、捨印として紙面上部に押印されていた印影が、アルコールミストにより消失したのだ

ボールペンで書いた文字が消えるのも困るが、印影が消えるのは一大事。

 

第一、このことをクライアントに何と説明すればいいのだ。

「アルコール消毒の下で書いていたら、勝手に噴霧されて消えてしまいました」

などとは、口が裂けても言えない。かといって誰かのせいにはしにくい状況だ。明らかにわたしのミスでしかない。

 

そうこうするうちにさすがアルコール。みるみる書類が乾いていく。わたしはハッとなり、下に重なる書類をめくる。

二枚目、三枚目は全滅だーー。

 

 

多分、あれが「朱肉」で押印されいたならば、アルコールにより浮き上がり、流されて消えることはなかっただろう。

朱肉の歴史は古く、日本においては奈良時代から使用されてたようだ。

 

だが今回の書類は、ゴム印を押すときの赤いスタンプ台(水性インク)を使ったから、消えたのだと予想する。

 

ちなみに公的な書類への捺印が義務化されたのは、明治6年交付の「太政官布告令」によるもので、これこそが憎き「ハンコ文化」の幕開けとなった。

殊に「捨印」の意味不明さも気に入らない。捨印がまるで「万能」であるかのような扱い、そして「捨印がなければ受け付けない」などという横暴な振る舞いが、許されて良いのだろうか。

 

わたしは断固として反対だ。ナンセンスだし、時代遅れも甚だしい。

 

ーーそう心の中で呟きながらも、頭はクラクラで、立っているのがやっとだった。

 

 

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