終わりの始まり(無限ループの憂鬱)

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「今日こそ終わるのだ」

 

そう思い続けてどれほどの月日が流れただろう。

誰かに強制されているわけでも、自ら好んでやっているわけでもないのに、一体どんな義務感で続けているのだろうか。

 

振り返るとこの半年間、毎日書かさずコラムを書き続けた。

そしてこのブログという形で、毎日発信し続けた。

 

それが今日、ようやく終わるのだ。

 

ーーと思ったことを書いてしまったのだから、この「終わり」は一日持ち越しとなった。

 

 

毎日2,000字程度、なんの役にも立たないくだらないコラムを書いている私。

ヒントや題材があるわけではないので、そのとき思いついたことをダラダラと書き連ねている。

 

「すごいよね、毎日書くなんて」

とか言うなかれ。

私はなに一つ、頑張ってなどいないから。

 

暇つぶしに近所をふらっと散歩する人に対して、

「えらいよね、毎日(フラフラ)散歩するなんて」

という、揶揄だか賛辞だか分からない誉め言葉と同じだ。

 

頑張るとしたらこんなもんじゃない。

適当にやっているからこそ続けられるだけで、私を見くびらないでほしい。

 

 

毎日、健康のためもしくはその日の天候や様子を知るため、近所を5分散歩することについて考えてみる。

 

健全な青少年の場合、たかだか5分散歩をすることなど大した行動ではない。

だが足腰の弱った高齢者が、健康維持のためにたとえ5分でも自立歩行を続けることは、非常に意味のあることだろう。

引きこもりやニートが社会生活の第一歩として、5分散歩することも褒められたことかもしれない。

 

では、散歩の時間が5分ではなく10秒だったらどうだろうか。

 

毎日10秒の散歩を続けることは、えらいだろうか。

たとえ10秒でも、玄関の外へ出ないよりは意味があるという意見もあるだろうし、10秒なんて数十歩しか歩かないわけでえらくもなんともない、とこき下ろされるかもしれない。

 

とは言え、天気のいい日だけ5分の散歩に出ることと、どんな天気であっても毎日10秒散歩に出ることでは意味合いが異なる。

誰だって、散歩したい気分や天気のときに外出したい。

 

それをマイナス10度の極寒の日でも、35度の猛暑日でも、欠かすことなく散歩に出るということは、もはや「訓練」というジャンルではないだろうか。

たとえ10秒でも、毎日続けることは訓練になると考える。

 

 

この見解を私のコラムに当てはめると、毎日書くことは訓練に値する。

問題なのは文字数とクオリティだ。

 

私は2,000字を目安に書いているが、仮に100字の超ショートコラムを書いたとしても問題はない。

そのクオリティが保たれていれば。

 

逆に、

「朝起きて、顔洗って、歯磨いて・・・」

これを2,000字書いたところで、どう見たってマイナスの価値しかない。

そんな粗悪品は存在しない方がマシだ。

 

つまり「毎日」にこだわるあまりクオリティを無視しはじめたら、それは終わり(というより終わった)を意味する。

最低限を維持しつつも毎日続けることが大原則なわけで。

 

そしてこれまでに、何度「今日は無理だ」と思ったことか。

これまた不思議なことに、そう思うたびに偶然にも書くことが現れるのだ。

 

だが、さすがに昨日は「もう終わりだ」と観念した。

にもかかわらず、たまたま先輩との会話から書かざるを得なくなった。

 

「毎日続けることは、いいことですよ」

 

その言葉はまるで、毎日散歩をすることは体にいいことですよ、と同じレベルの軽い響きだった。

そこで思った。

健康な人間の「毎日の散歩」と、病気や高齢者の「毎日の散歩」は、重みが違うと。

 

言わば私は健康な人間なわけで、毎日散歩を続けることが可能なフィジカルを持っている。

であれば、天候や体調に左右されることなく、毎日散歩を続けるべきではなかろうか。

 

散歩の時間が5分なのか10秒なのか、負荷の重さは人によりけり。

ただ、

「気分がいいから散歩をしよう」

「天気が悪いから今日はやめよう」

ではない、

「訓練としての散歩」

というものを、私なら選ぶ。

 

やるやらないは本人に委ねられていない。

訓練行為として存在するわけで。

ーーそう考えると、身も心も軽くなる

 

そして、やめたいのにやめない(やめられない)とき。

好きだからやめられない、せっかくだから続けたい、怖くてやめられない・・・

この場合、やめる理由は簡単なのに対して、やめられない理由はわりとナーバスで重苦しいことが多い。

 

だが私には、やめる理由もやめられない理由も不要。

それを「訓練」として受け入れてるだけだから。

 

 

かと言って、無理をするつもりなど毛頭ない。

無理なら無理で連投記録が途絶えるだけ、大した問題ではないからだ。

 

むしろ早く楽にしてもらいたい。

一思いに終わらせてもらいたい。

いつこの呪縛から解放されるのか、毎日心待ちにしているというのに。

 

私にとどめを刺せるのは私でしかない。

そして待望の「その日」がやって来たわけだ。

 

「今日こそ、ようやく解放されるのだ」

 

意外にも気持ちは軽やかで、涙もなければ悲壮感など微塵も漂わない。

ただただ、ようやくこの日が来たのかという感慨深い思いだけで。

 

そして私は嬉しさのあまり、そのことを文字にしてしまった。

 

明日こそ、終わるのではなかろうか。

明日こそ、開放されるはずだ。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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