「今日こそ終わるのだ」
そう思い続けてどれほどの月日が流れただろう。
誰かに強制されているわけでも、自ら好んでやっているわけでもないのに、一体どんな義務感で続けているのだろうか。
振り返るとこの半年間、毎日書かさずコラムを書き続けた。
そしてこのブログという形で、毎日発信し続けた。
それが今日、ようやく終わるのだ。
ーーと思ったことを書いてしまったのだから、この「終わり」は一日持ち越しとなった。
*
毎日2,000字程度、なんの役にも立たないくだらないコラムを書いている私。
ヒントや題材があるわけではないので、そのとき思いついたことをダラダラと書き連ねている。
「すごいよね、毎日書くなんて」
とか言うなかれ。
私はなに一つ、頑張ってなどいないから。
暇つぶしに近所をふらっと散歩する人に対して、
「えらいよね、毎日(フラフラ)散歩するなんて」
という、揶揄だか賛辞だか分からない誉め言葉と同じだ。
頑張るとしたらこんなもんじゃない。
適当にやっているからこそ続けられるだけで、私を見くびらないでほしい。
*
毎日、健康のためもしくはその日の天候や様子を知るため、近所を5分散歩することについて考えてみる。
健全な青少年の場合、たかだか5分散歩をすることなど大した行動ではない。
だが足腰の弱った高齢者が、健康維持のためにたとえ5分でも自立歩行を続けることは、非常に意味のあることだろう。
引きこもりやニートが社会生活の第一歩として、5分散歩することも褒められたことかもしれない。
では、散歩の時間が5分ではなく10秒だったらどうだろうか。
毎日10秒の散歩を続けることは、えらいだろうか。
たとえ10秒でも、玄関の外へ出ないよりは意味があるという意見もあるだろうし、10秒なんて数十歩しか歩かないわけでえらくもなんともない、とこき下ろされるかもしれない。
とは言え、天気のいい日だけ5分の散歩に出ることと、どんな天気であっても毎日10秒散歩に出ることでは意味合いが異なる。
誰だって、散歩したい気分や天気のときに外出したい。
それをマイナス10度の極寒の日でも、35度の猛暑日でも、欠かすことなく散歩に出るということは、もはや「訓練」というジャンルではないだろうか。
たとえ10秒でも、毎日続けることは訓練になると考える。
*
この見解を私のコラムに当てはめると、毎日書くことは訓練に値する。
問題なのは文字数とクオリティだ。
私は2,000字を目安に書いているが、仮に100字の超ショートコラムを書いたとしても問題はない。
そのクオリティが保たれていれば。
逆に、
「朝起きて、顔洗って、歯磨いて・・・」
これを2,000字書いたところで、どう見たってマイナスの価値しかない。
そんな粗悪品は存在しない方がマシだ。
つまり「毎日」にこだわるあまりクオリティを無視しはじめたら、それは終わり(というより終わった)を意味する。
最低限を維持しつつも毎日続けることが大原則なわけで。
そしてこれまでに、何度「今日は無理だ」と思ったことか。
これまた不思議なことに、そう思うたびに偶然にも書くことが現れるのだ。
だが、さすがに昨日は「もう終わりだ」と観念した。
にもかかわらず、たまたま先輩との会話から書かざるを得なくなった。
「毎日続けることは、いいことですよ」
その言葉はまるで、毎日散歩をすることは体にいいことですよ、と同じレベルの軽い響きだった。
そこで思った。
健康な人間の「毎日の散歩」と、病気や高齢者の「毎日の散歩」は、重みが違うと。
言わば私は健康な人間なわけで、毎日散歩を続けることが可能なフィジカルを持っている。
であれば、天候や体調に左右されることなく、毎日散歩を続けるべきではなかろうか。
散歩の時間が5分なのか10秒なのか、負荷の重さは人によりけり。
ただ、
「気分がいいから散歩をしよう」
「天気が悪いから今日はやめよう」
ではない、
「訓練としての散歩」
というものを、私なら選ぶ。
やるやらないは本人に委ねられていない。
訓練行為として存在するわけで。
ーーそう考えると、身も心も軽くなる
そして、やめたいのにやめない(やめられない)とき。
好きだからやめられない、せっかくだから続けたい、怖くてやめられない・・・
この場合、やめる理由は簡単なのに対して、やめられない理由はわりとナーバスで重苦しいことが多い。
だが私には、やめる理由もやめられない理由も不要。
それを「訓練」として受け入れてるだけだから。
*
かと言って、無理をするつもりなど毛頭ない。
無理なら無理で連投記録が途絶えるだけ、大した問題ではないからだ。
むしろ早く楽にしてもらいたい。
一思いに終わらせてもらいたい。
いつこの呪縛から解放されるのか、毎日心待ちにしているというのに。
私にとどめを刺せるのは私でしかない。
そして待望の「その日」がやって来たわけだ。
「今日こそ、ようやく解放されるのだ」
意外にも気持ちは軽やかで、涙もなければ悲壮感など微塵も漂わない。
ただただ、ようやくこの日が来たのかという感慨深い思いだけで。
そして私は嬉しさのあまり、そのことを文字にしてしまった。
明日こそ、終わるのではなかろうか。
明日こそ、開放されるはずだ。
Illustrated by 希鳳
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