太平洋上空幼児〇〇事件

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※食事前中後は閲覧注意

・・クソッ、いったい誰だ？！「マスクを外せ！」「マスクなど意味がない！」とマスクを否定し、マスクの所持を放棄させた愚か者は！？

なぜなら、今この瞬間こそもっともマスクが必要であり、むしろこの時のためにマスクは存在するのではないか？というほどの、緊急事態が発生したのだ。

飛行機内という密閉された空間で起きた、回避不可能な事件。それは、わたしのすぐ後ろに座っていた幼児の嘔吐だった。

もちろん子どもに罪はないし、誰も責めたり不快な表情を浮かべたりする者もいない。仕方のないことであり、「あぁ、そういうこともあるよね」･･･という感じで、ただ静かに時が流れた。

これが大人ならば、とりあえず吐き気を我慢しつつトイレへ駈け込むだろうから、実際に公の場で吐いてしまうのは子どもくらいだろう。

ちなみに、子どもの吐しゃ物の臭いは、まだなんとか耐えることができる。動物のソレらも同じだが、食べている物が限られているため、そこまでおぞましい異臭とはならないからだ。

ところが、人間のオトナの吐しゃ物の臭いは耐え難い。胃の内容物に加えて、胃液に含まれる塩酸が、鼻に残る強力な刺激臭を発するのが原因。

おまけに、冷静さを保てなくなるほどの苦痛をもたらすあの臭いは、一種の化学兵器といっても過言ではないだろう。

・・おっと。今までグゥグゥ寝ていた乗客たちが、こぞって目を覚ました。そして一様に周囲を見渡し事態を把握すると、手持ち無沙汰になんとなく正面のモニターをいじり始めた。

わたしが乗るこの便は、外国人の搭乗率が高いように感じる。少なくともわたしの前後左右は外国人であり、嘔吐した子どもの家族もアラブ系だった。

そして、乗客のほとんどはマスクなど着けていない。ところが、「太平洋上空幼児嘔吐事件」が発覚すると、誰もがガサゴソと手持ちのカバンを漁り始めたのだ。

それから「ペリッ」という音とともに、透明フィルムの個包装を破り始めたのである。

（え？まさか・・・）

そう、多くの外国人たちは「マスク大国・日本」を訪れるにあたり、お守り代わりにマスクを忍ばせていたのだ。

郷に入れては郷に従え——とは、よく言ったものだ。その「郷」に入り浸っているにもかかわらず、お守りを持ち歩かない無礼な無神論者であるわたしは、ここぞとばかりにバチが当たったのだ！

あぁ、周りは誰もかれもがマスクを着けている。予備でもう一つ持っている者はいないのだろうか・・。キャビンクルーに頼めばマスクをくれるだろうが、座席の配置上そこまで行く勇気が出ない。

こういう時、窓側の席は辛いものがある。隣人たちの様子と顔色を伺い、ギリギリまで耐えてから心底申し訳なさそうに「あのぉ・・」と声を掛けるしかないからだ。

（頼むからどっちか、トイレに行ってくれ・・）

そう祈ること7時間、どちらも席を立たないのだから立派である。よっぽど膀胱がデカいのか、あるいは紙おむつでも装着しているのだろう。

あぁ、地獄だ——。

＊

そこでわたしは考えを改めた。この状況を逆手にとり、自分にとって有利な条件に変えてしまえばいいのだ、と。

まずは吐しゃ物の臭いについて。これは一気に食欲を失う効果があるわけで、減量にはもってこい。——そうだ、ちょうどよかったではないか。無理をせずとも自然に、そして楽に食欲から意識が削がれていくのだから。

そして、この異臭はある種の「化学兵器」であるため、マスクで遮断せずとも耐え凌げれば、いざという時にわたしだけは生き残ることができる。——そうだ、今ここでニオイという敵と対等にやり合うことができたなら、それこそわたしは「嗅覚最強」の称号を手に入れられるのである。

そう思い込ませることで、わたしは悟りの境地に足を踏み入れようとしていた。

もはや、吐しゃ物の臭いなど気にもならない。むしろ、柑橘系の爽やかな香りが、どこからともなく漂ってくるわけで——。

・・と思ったら、まさにその通りだった。なぜなら、キャビンクルーが爽やかな香りの消臭剤を撒いていたのだ。

いずれにせよ、地獄から抜け出すことができてホッとしたわたし。しかし、できることならば、もっと早い段階で消臭剤を投入してもらいたかった･･･なんて言えるわけがない。

サムネイル by 希鳳

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