わたしは今、太平洋上空を横断中だが、先ほどから奇妙な現象に見舞われている。わたしだけでなく隣りに座る米国人も、同様にこの超常現象に悩まされているわけで、夢ではなく現実的に起こっていることなのだ。
*
羽田空港を離陸後、間もなくして夕食の時間を迎えた。そして満員御礼の窮屈な機内で、庶民である我々エコノミークラスの乗客は、ただただ餌が配られるのを待っていた。
「チキン?パスタ?」
この二言だけを延々と発し続けるキャビンクルーも、なんというかご苦労である。いっそのこと、全員の前で「チキン!」と叫んで挙手させて、一斉に配る方が早いのではなかろうか。
さらに問題なのは、この「チキン」がどのような方法で調理されているのかが分からないことだ。もしも通路側の席ならばクルーにコッソリ聞くのだが、窓側の席から大声で調理方法を尋ねるのもバツが悪いため、密かに想像するしかないのである。
まずは鼻を利かせて、前方の客から漏れてくる匂いを頼りにチキンの状態を探ってみる。
(ダメだ、パスタのソースの匂いにかき消されている・・)
美味そうなパスタの匂いにより、チキンの調理方法は謎に包まれたまま、我々の列まで順番が回ってきてしまった。できればチキンの丸焼きのような、あっさりした味付けであることを期待したい——。
「チキン」
「チキン」
「チキン」
なんと、この列は全員がチキンを選び、二択とはいえ見事に足並みを揃える結果となった。思うに、隣りの米国人もその隣りの中国人も、チキンの状態が知りたくて選んだのだろう。なぜなら、わたしがその目的でチキンを選んだからだ。
こうして無事に餌を与えられた我々は、いざ食事にありつこうと「チキン」のプレートを覆っているアルミホイルを剥がしにかかった。だが事件はその時に起きた。
(・・・?)
突然、目の前のトレーが動いたのだ。いや、動いたというより滑った感じか。なんの変哲もないごく普通のトレーが、急に不自然な動きを見せたのだ。
最初は気のせいかと思ったが、トレーを元の位置に戻した瞬間に再びスルッとズレたことで、この異変が事実であることを確信した。
(・・トレーの底が濡れているのか?)
濡れたコップがテーブルの上を滑るかのように、ツルっとトレーが動いたため、トレーが濡れている説を唱えようとしたが、実際のところはトレーの底もテーブルも濡れてはいなかった。
ではいったい、なぜ——。
奇妙なことに、何度トレーを元の位置へ戻しても、必ず手前に戻って来るのだ。若干の傾斜があるにせよ、まるで磁石のN極同士が反発するかのように、スルッと滑ってズレるのだから不思議である。
横目で隣人らを観察すると、二人ともわたしと同じくツルツル滑るトレーに苦戦していた。——やはりこのトレーとテーブルの間には、なんらかの磁場が発生しているのだ。あるいは、料理のいずれかに磁場を発生させる何かが入っているとか。まさか、チキン・・・。
そんな妄想を膨らませながら、わたしはトレーを回転させて向こう側を手前に持ってきた。たまたま、トレーの向きや位置で滑っていたのかもしれないと思い、その可能性に賭けてみたのである。
(ダメだ、変わりなく滑る・・)
こんなことに時間を費やすうちに、貴重な食事の時間が減っていくではないか。一刻も早く、トレーの滑りを止めて「チキン」にありつかねば——。
とその時、目の前に格好の「バラスト(重量物)」があることに気が付いた。その正体とは、豆大福だった。
夕飯のデザートとして、なぜか豆大福が添えられていたのだ。おにぎりほどの大きさのデカい豆大福は、それはそれは見るからにズッシリとしており、重石として最適な物体である。
硬いトレーに硬いテーブル、そこへ硬い重石を置いたところで、ヘタすると重石ごと滑ってしまうだろう。だが、豆大福のように柔らかくて変幻自在な物体であれば、この怪奇現象を止められるに違いない——。
そう考えたわたしは、さっそく、豆大福を掴むとテーブルの隅っこにグッと押し付けてトレーの防滑を試みた。
(・・と、止まった!)
こうしてわたしは、見事トレーの暴走を食い止めることに成功したのである。この時ほど、豆大福に感謝したことはない。その存在価値すら疑っていたわけで、まさかこのような活用方法があるとは思いもしなかったからだ。
そして、意気揚々とチキンのアルミホイルを剥がすと、メインディッシュの正体を確認するべくのぞき込んだ。
(照り焼きチキンか・・・)
想像していたチキン料理とは大きくかけ離れた内容に、わずかな驚きと落胆を感じながらも、おずおずと照り焼きチキンにフォークを突き刺した。そしてなんとなく、隣りの二人の様子をうかがってみたところ——、
なんと二人とも、豆大福でトレーの滑落を防いでいたのだ!
これは間違いなく、わたしの防滑対策を真似てのことだろう。日本人、米国人、中国人。国の威信を賭けての知恵比べに、見事勝利したのは我らが日本人だったわけだ。
(どうだ!これこそが日本の国技ってやつだ!)
*
こうして、日本が誇る和菓子の代表・豆大福のファインプレーにより、我々三人はトレーを固定することに成功し、穏やかな気持ちでディナーに舌鼓を打つことができたのである。
もちろん彼らは二人とも、豆大福まできちんと完食したのは言うまでもない。
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