「THE PLAYERS’ TRIBUNE」に掲載された、とあるコラムを読んで、過去の苦い思い出がよみがえった。それはNBAトロント・ラプターズ所属の渡邊雄太選手についての記事だった。
雄太は今季開幕前、ラプターズのトレーニングキャンプに参加し2WAY契約を締結。
怪我による一時的な戦線離脱やオフェンス面での積極性を不安視する声が上がるなか、4月に入ってからの変化は目まぐるしかった。
出場時間も倍増し、フィールドゴール57.1%、3ポイント45.9%と大活躍をみせ、とうとう本契約を掴み取ったのだ。
あの短期間での急成長は鳥肌モノだった。
そんな雄太が大切にしている「言葉のチカラ」について、記事でこう語っている。
“言葉のチカラ”。僕はそれを信じている。
ポジティブな言葉も、そしてネガティブな言葉も。刷り込まれた言葉は人の意識を変え、その後の人生に大きな影響を及ぼす。NBAという世界で戦い抜くために大切にしている言葉について、僕が普段感じていることを語れたらと思う。
まず大好きな言葉、それは「謙虚」だ。
この「謙虚」について、両親との言葉のすれ違いがあった。
彼がジョージ・ワシントン大学大学4年の頃。NBAを本格的に意識する大事な時期に、両親から投げられた「謙虚」に由来する言葉に、深く傷ついたのだそう。
“知り合いの◯◯さんに会ったんやけど、「雄太くんはNBA選手になれるんでしょ?」って聞いてきた。だから冗談めかして「ウチの息子はまだまだですよ」って言っといたよ”
そのメッセージを見たとき、僕は本当にショックを受けた。
ドラフトは難しいとわかっていても、誰よりも自分が努力をしている自覚が僕にはあった。不安で孤独で、それでも自分を奮い立たせようとしていた時期。ほんのひと言でもいい、背中を押してほしい、そう無意識に思っていたのかもしれない。そんな最中に、両親から送られてきたのが、このメッセージだったのだ。
これが両親の本心ではないことくらい、雄太も十分承知していた。
だが時期が時期で非常にナーバズな状態の彼にとって、誰よりも近くで努力を見守ってきた両親からの、突き放すようなセリフは残酷に響いたのだろう。
わたしは彼のご両親と行動を共にしたことがある。それは一昨年、雄太がグリズリーズと2WAY契約を締結し、ホームとなるメンフィスまで足を運んだ時だった。
父も母も長身細身の元バスケットボールプレイヤー。生粋の日本人選手を両親に持つ雄太は、日本が世界へ誇るべきNBAプレイヤーへと成長した。
とはいえ、それまでの道のりが順風満帆だったはずがない。両親が担ってきた精神的、金銭的苦労は計り知れないものがある。
雄太の父は、表面上は「日本男児の典型」といった亭主関白ぶりを見せるが、内心はとても優しく常に相手を思いやる人。
雄太のプレーひとつとっても、
「ここでこう言ってはいけないんだ」
「今はそっとしておこう」
などと、自分の考えより雄太の気持ちを優先する言動が見られる。
確かに雄太の前では「父親らしい発言」をするのだが、影ではその何倍も、繊細に気を使う様子を目の当りにした。
誰よりも息子を思い、愛している両親なのだ。
コラムに話を戻そう。両親からの言葉に納得のいかない雄太は、高校時代のチームメイトであり、現在彼のメンタルケアをサポートしている親友・楠元氏へ相談をした。
“両親の言葉が気になるんだ。もちろん父さんも母さんも僕のことを応援してくれているのはわかっているから、わざわざ言う必要もないのかもしれないけど……正直、気になるんだ”
楠元の答えは、極めてシンプルだった。
“お前が気になっているなら言うべきだろ。大丈夫、わかってくれるさ”
この言葉を受けて、雄太は両親に素直な胸の内を伝えた。
「NBAでプレーするまで僕の背中を押し続けてほしい」と。
すると、すぐに両親から電話がかかってきた。遠い故郷からの第一声はこうだった。「本当に申し訳ないことをした……」。そんな言葉に、僕も本当に胸が痛くなったのを覚えている。でも言葉のチカラは少なからずあると思っている。僕が努力を怠っていて、実力もないのにNBAでプレーしたいと言っていたら、「ウチの息子はまだまだ」と言われても甘んじて受け入れる。でも努力していることを両親もわかってくれていて、僕自身もNBAでプレーするだけの準備はできていると思っていたから、マイナスよりもプラスの言葉を吸収することで力にしたいと思った。だから、両親に対してもあえてそこは言わせてもらったのだ。
この文章を読んで、涙が出た。
こんな風に素直に息子に謝ることができる父親が、どれほどいるだろうか。
「なにを生意気なこと言ってるんだ!」
などと、つい口走ってしまわないだろうか。
正直な心情を吐露した雄太も素晴らしいが、それを受けてすぐさま謝罪し、息子を尊重する父親こそ、真の人格者だと感じた。
*
10年以上前のこと。わたしはプロキャディとして、男子プロゴルフツアーに帯同していた。そんなある日の予選最終日。
「ここでしっかりとバーディー取りたいんだよね」
プロがそう呟いた。わたしは芝目や傾斜を読むなど、バーディーパットのサポートに必死だった。
「あのディボットの内側くらいでいいかな?」
そう聞かれたわたしは、自信を持って「YES」と答えられなかった。
もしその通りに打って外れたら、わたしが読み間違えたことになる。でも何としてでもカップインしてほしいーー。
そんなことを願いながら、わたしが放った言葉は、
「入るといいですね」
だった。自分にとっては何気ない一言で、本人にプレッシャーを与えないためにも、少し他人行儀な言葉を選んだつもり。
しかしそれが逆効果だった。
バーディーパットを外した後、プロは一言も口をきかずに最終ホールまで進んだ。そしてホールアウトした瞬間、
「入るといいね、ってなんだよ。おまえは何のためにいるんだよ!」
と、堰を切ったように大声で怒鳴られた。
極度の緊張・集中状態にいる選手は、予想以上にナーバスで孤独を感じる。そしてその場にいる味方は、キャディ一人のみ。
その”味方”から「入るといいね」などという投げやりな言葉を聞かされたため、彼の集中力は途切れ、代わりに怒りが湧いたのだろう。
あの時からわたしは、言葉の重みについて深く考えるようになった。もう二度と、勝負の場面であんな思いをさせまい、と強く誓った。
ーーそんな苦い過去を、雄太のコラムで思い出させてもらった。今一度、「言葉のチカラ」について考え直そうと思う。
ありがとう、雄太と雄太のご両親。
コメントを残す