助言人

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ヒトが悩みを打ち明けるとき、近すぎる関係性だと話しづらいことがある。しかも深刻であればあるほど、ある意味専門性のある人物や頼もしさ、はたまた逞しさといった「本気で助けてもらいたい相手」を選ぶ傾向にある。

わたしは職業柄、比較的深刻な悩みやトラブルに関する相談を受ける機会が多いが、ここ最近、”たまたま偶然”の流れで聞くこととなった相談が相次いだことに、なにか運命的なものを感じるのであった。

しかも、いずれも当事者の人生を左右するようなものばかりで、聞いているこちらの胸が痛むのであった。

 

自己分析したところ、わたしという人物は”相談相手として適切、あるいは無難である”と判断されたというより、「動物的な本能で選んだ、最後の砦」なのだと結論付けた。なぜそう思うのかというと、特別親しい間柄でもないのに、持ち掛ける相談内容がいずれも「重すぎる」からだ。

 

ここ数日の相談事はどれもディープで、当然ながらわたしの力ではどうにもならないものばかり。もしもこれが「瓶のフタが固くて開かない」とか「バレないようにカンニングするコツ」であれば、それこそ二つ返事で手を貸すわけだが、残念ながら事態は急を要する段階まで進んでおり、ややもすると手遅れの可能性すら——。

「なんでもっと早く相談してくれなかったの?」と、相談のタイミングが今であることを責めたくなるが、当人にとっても考えあぐねた結果・・というより、たまたま今日わたしと会って、たまたまその話題が出ただけという流れなので、責めたところでどうしようもない。

それでも、とにかく事態を改善させるべく”最善かつ最後の一手”をひねり出すのであった。

 

そんな苦肉の策でも結果的に奏効すれば御の字だが、やはり手遅れとなる場合もある。それでも、自らがひねり出した一手の責任を負うべく、結果が出るまでは祈り続けるわたし。

——他人の人生のために、なぜわたしが祈らなければならないのだろう・・、と疑問に思わなくもないが、事態が好転するように本気で策を練ったわけだし、そもそも、バッドエンドになる必要のないことばかりなのがもどかしい。

(頼むから間に合ってくれ。今回だけでいいから、どうにか上手くっていってくれ・・)

そう祈りつつ、相談者と同じ胸の痛みを覚えるのである。

 

だがそんな祈りも空しく、結果が変わることなく終わってしまった相談事があった。

ヒトが抱える悩みのほとんど・・いや、すべてが「ヒトに関すること」であり、それを解決するには「他人を変えるか、自分が変わるか」の二択しかない。言うまでもなく、他人を変えることなど不可能なわけで、最終的には自分が変わるしかないのだが、”泣きの一回”が通るならばもう一度だけ、ラストチャンスを与えてもらいたい——。しかしながら、その願いは叶わなかった。

 

もうあと何日か早く相談されていたら、きっと結果は変わっていただろう。とはいえ、いずれは同じ道を辿るであろう未来も見えている。であれば、一日でも早く終わらせることが、当人にとって真の意味での幸せなのかもしれない。だけど、それにしても・・。

どうにもならない現実に、赤の他人であるわたしもガックリと肩を落とすしかなかった。そのとき、ふと思ったことがある。わたしは誰かの相談事に対して、自分の人生の一部を使っているのだ・・と。それゆえに、事態が好転するように祈るのだ。誰かの人生が上手くいけば、わたしの人生も上手くいったことになる。だからこそ、全身全霊で祈るのだ。

 

 

崖っぷちにぶら下がって今にも落ちそうになっている時、差し出されたいくつもの手の中からどれを掴むのか・・という選択を迫られたら、是非ともわたしの手を握ってもらいたい。

そのためにも、「わたしならばキミを絶対に落とさない」と胸を張って言えるような、信頼に足る太くて逞しい手でありたい。

 

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