白金高輪駅発19時20分の南北線は空いていた。
すでに帰宅ラッシュの時間帯が過ぎていただけでなく、この電車が始発ということもあって、乗客全員が座れる快適な状態で電車は動き出した。とはいえ、次の停車駅となる麻布十番や六本木一丁目では、さすがに仕事帰りのサラリーマンたちが乗り込んで来るので、立ったままの乗客もチラホラと現れるようになった。
そんな”適度に混み合った車内”で、わたしは「もうすでに遅刻確定だから、せめてテーピングくらい巻いておこう」と、リュックに手を突っ込んでガサゴソとテーピングを探し始めたのである。
とはいえ、テーピングを入れたポーチがリュックの底にあることは分かっていた。なぜなら、道衣や着替えを入れる際にポーチの上へ押し込んだ記憶があるからだ。そのため、最も奥まで手を伸ばさなければ届かない・・ということも、当然ながら承知していた。
もしもリュックの口を大きく開けて、中身を取り出しながらテーピングを探り当てることができれば、さほど難しい話ではないだろう。だが、両隣に乗客がいる上に目の前にもサラリーマンが立っている状況を鑑みると、不用意に腕を動かすことは憚られる。
そのため、小さく開けたファスナーの隙間へ手を突っ込み、指先に神経を集中させながらポーチの感触を探るしかなかった。
(・・あ、あった)
無印良品で購入したナイロン素材のポーチは、表面が独特な手触りのため触れればすぐにわかる。しかも案の定、すべての内容物の下敷きとなる形で底辺に押しつぶされているので、引っ張り出すにしてもある程度のチカラとスピードが必要だった。
とはいえ、適度に混雑した車内において、力づくでポーチを取り出すような粗野な真似はできない。ここはあくまで女性らしく、そして周囲への配慮を強調する挙動を心がけなければならない——。
こうしてわたしは、ナイロンのポーチを指先でつまむと、ちょっとずつリュックの入り口のほうへと引き上げ始めた。
ギュウギュウに詰め込まれた道衣との摩擦に抵抗しながらも、徐々に底辺から浮上するテーピングたちは、ややもすると途中で滑落しそうになる。なぜなら、中指と人差し指という力の入りにくい指でつまんでいるため、少しでも緩めるとポーチが抜け落ちてしまうのだ。
(・・・もうちょっとで引き上げられる)
リュックの奥まで潜り込んでいた腕だが、あと少しで手首が見えるという位置まで引き上げられた、その時——事件は起きた。
指先に力を込めて小刻みに腕を動かしながら、ポーチを取り出すべく最後の一引きをした瞬間、ポーチよりも先にひらりと宙を舞う黒い物体が——まさかの、着替え用に入れておいたブラジャーとパンツが、リュックから飛び出したのだ。
あっという間に床へ落ちた我が下着を、無言で見つめる半径2メートル以内の乗客たち。誰一人として手を伸ばす者はいない・・そりゃそうだ、こんなことでセクハラだのなんだの難癖つけられては、たまったもんじゃない。
そんな絶妙に気まずい空気を感じながらも、わたしは内心こう思っていた。
(しまった、両方ともユニクロじゃないか・・・)
どうせならもっとセクシーな下着・・いや、ランジェリーを飛ばしたかった。仕事帰りのくたびれたサラリーマンに夢と希望を与えられるような、とびきり魅力的な逸品をぶちまけたかったのだ。
それなのにわたしときたら、「所詮、練習後の着替えだから」と、機能重視でユニクロの下着を詰め込んだのである。無論、それで正しいのだが、仮にもこのような事態に遭遇する恐れがあったならば、見せブラ見せパンを選ぶべきだった——微妙に意味は異なるが。
*
床に散らかるユニクロのブラジャーとパンツを見つめながら、「でも、勝負下着は別にあるから!」と、言い訳したい気持ちをグッと堪えるわたし。そしてゆっくりと腰を上げると、これといって慌てる様子も見せずに下着を回収した。
その後、何事もなかったかのようにテーピングを巻き始めると、先ほどまで張り詰めていた空気も和らぎ、いつも通りの南北線車内へと戻っていったのである。
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