恋焦がれた、筋肉痛。

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ぎっくり尻を発症してから三日が経過した。言うまでもないが、持ち前の驚異的な回復力で日に日に歩幅は広がり、歩様はおかしいにせよ速度は老人と肩を並べるまで上昇した。

そして、なんだかんだ言って「人間は動物なんだな」と実感するのは、右足に体重を乗せられなくても、どうにかして歩こうとする・・いや、とにかく前へ進もうとする強い意志があることだ。

たとえ二足歩行が無理だとしても、手すりを使ったり道端に置いてある自転車やパイソンを利用したりしながら、三足歩行をすればいい。さらに、室内や芝生の上なら四つん這いになって四足歩行をすればいい。場合によっては、す巻きを転がすかのようにゴロゴロ回転すれば、下手に歩くよりも早く移動できるわけで、われわれには様々な”移動手段の可能性”が与えられているのである。

 

そんな、一見「不自由な生活」を強いられるわたしではあるが、とある身体的な変化に歓喜することとなった。それは・・筋肉痛である。

 

わたしは、そもそも筋肉が特殊であるためか、筋肉痛というものを経験した記憶がほぼない。たしかに、過度に身体を使うことで筋肉が疲労することはあるが、だからといって「筋肉痛」と呼ぶにはおこがましいほどの微妙な痛みであり、どちらかというと「筋肉違和感」というほうが相応しいレベル。

それゆえ、「筋肉痛であちこちが痛い~」とか「体中が痛くて動けない~」などという、貧弱そうな女子を心底羨ましく思っていたし、「あれこそが、女性らしさの象徴なんじゃないか」という妄想に似た憧れを抱いていた。にもかかわらず、一向に訪れない筋肉痛のことなど忘れかけていた頃、ふと気づくと背中や腹部、左の大腿四頭筋に軽い違和感を覚えたのだ。

(・・こ、これは筋肉痛じゃないか!?)

 

筋肉を傷めた(厳密には筋肉痛も筋肉の損傷ではあるが、ここでは損傷としない)場合の明らかな負傷感ではなく、なんというか心地よい違和感かつ疲労感が、わたしの体内に収まっている各所筋肉から感じられるのだ。これは言わずもがな、筋肉痛ってやつだ——。

まさかの願ったり叶ったりに、思わず口元がほころぶわたし。このほろ苦い気怠さのような痛みこそが、筋肉痛の特徴である。あぁ・・なんて心地いいんだ。

 

筋肉痛というのは、自ずとヒトに充足感を与える。筋肉痛があるからこそ「頑張った」とか「やり遂げた」という実感が湧くわけで、手ごたえのない身体運動や肉体労働など、達成感の欠片も感じられないただの拷問である。

 

こうして、肩辺りから太ももまで余すところなく広がる微かな筋肉の痛みを味わいながら、疲労困憊のわたしは昼寝(?)に就いたのである。

 

 

・・およそこうなるであろう予感はしていたが、二時間ほどスヤスヤと眠ったところ、あの筋肉痛は姿を消していた。

不安に思いながらも起き上がってみると、背中や肩回りの痛みは消え、左の大腿四頭筋は辛うじて違和感が残っているが、「筋肉痛だ!」と断言できるほどの痛みではなかった。

——あぁ、終わった。

 

右足に体重を乗せられないわたしは、左足のみならず全身に負担をかけながらも日常生活を送ってきた。そしてたったの三日ではあったが、二足歩行以外の移動手段というものを自分なりに編み出し実行してきた結果、今まで使ったことのない筋肉たちが叩き起こされたのだ。

その働きぶりを証明するかのように、筋肉痛という形で彼らが珍しく主張をしてきたわけだが、わずか二時間の睡眠でそれらは打ち消されてしまった。そして残されたのは、相変わらずの尻および股関節の痛みと、復活してきた膝の痛みだけだった。

——これはまるで、初恋に破れた中学生の心境である。

 

怪我の痛みというのは、不安や不快を感じるもの。しかしながら、筋肉痛による痛みは”満足と達成感を得られる”という特権がある。この違いは大きいし、これこそがヒトとして活動する上で重要な痛みなのではなかろうか——と、ひとり天井を見つめながら思うのであった。

 

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