転落事故

Pocket

 

ヴィィィィィィィィィィィィィィィィィィィン

片頭痛が発生した左の側頭部を、ダイレクトに揺さぶる不穏な周波数の轟音が浸潤していく。今は頭痛を感じない。だが押せば痛む打撲痕のような、血は止まっているが触れれば痛む切り傷の痕のような、眠らせておいてもらいたいダメージを無理矢理起こす「余計な振動」とでもいおうか。

 

小怪我は不思議なもので、言われるまで痛みを感じないことがある。

「あれ、ここどうしたの?」

そう言われて初めて傷の存在に気づく。今まで痛くも痒くもなかったその部分が、言われてみるとなんだか痛いと感じるようになり、急に大袈裟に痛がりだした経験はないだろうか。

まことに滑稽なことで、「知らぬが仏」とはよくいったものだ。つまり、小怪我程度ならば知らないほうが幸せなことがある。

 

私の片頭痛も今は治まっているわけで、むしろ片頭痛が起きていたことすら忘れていたわけで、そっとしておいてもらえればよかった。それを、

「どこが痛かったの?ここ?それともここ?」

というあんばいにあちこち押されたら痛みがぶり返し、忘れていた頭痛がよみがえるではないか。

だがそんな余計なことを、この音はやってくれている。どの辺?この辺?と問いかけんばかりに、大音量の低い振動音が私の側頭部を撫でまわす。そのうち徐々に一カ所、先日の痛みがぶり返してきた。――あぁ、片頭痛と同じ場所だ。

その振動は途切れることなく、痛みのある部分をえぐり始める。なんとも不思議な感覚だ。直接なにかで掘り起こされているわけではないのに、確実に傷跡をえぐられており、痛みがじわじわと増してくる。

(ダメだ、傷跡から意識を離そう)

ほんの少しの頭痛だが、気になりはじめると段々と痛く感じるもの。ここは意識を反らすのが得策だろう。固くつむっていた瞼を開けて、見える限りの物に目をやる。だがここはMRI検査装置の中。見えるものなど限られており、足元からわずかに外界が望める程度。色で例えるならばホワイト一色。

(私はなぜこんなところに入っているのだろうか)

それは先日、突然の片頭痛に見舞われたことが原因だろう。そしてその片頭痛は、機械から発せられる轟音によって浮き彫りにされ、今ふたたび痛みを感じ始めているわけだ。

――ダメだ、また頭痛に意識が戻ってしまった。

 

しかしなぜこの振動音は傷口をえぐるのだろうか。片頭痛の痛みは心拍数と一致しており、みるみる加速していく。なんとなく呼吸も苦しくなってきた。過呼吸気味なのだろうか、深い呼吸を心がけなければ。

私は呼気を口から細長く、吸気を鼻から素早く繰り返す。だがそんな努力も空しく鼓動は速まるばかり。このままでは意識を失うかもしれない――。

 

そもそも振動音に気を取られるあまり、この音の言いなりになっているだけのこと。頭痛をえぐり出されたこともそうだが、そこへ意識を持っていってしまったことが諸悪の根源。そのせいでナーバスになり不安を煽られた結果、心拍数上昇と呼吸困難がもたらされたわけで。

だから意識をそこから外したかったのだ。それなのに私は、中途半端な転換を試みたばかりに、再び頭痛へと意識が引き戻されたのだ。

 

そしてこれはもう手遅れだ。斜面を雪崩れ落ちる土砂のように、加速度的にドツボにハマったこの状況では、もはや意識を切り替えることは不可能。

クソッ、なぜもっと早い時点で意向を固めなかったんだ。中途半端に気を紛らわせようとしたせいで、せっかくのチャンスを無駄にしたではないか。やればできたはず、絶対に意識を変えられたはず。なのに私が優柔不断なばかりに、こんなことになってしまったのだ――。

 

後悔先に立たず。心拍数が200を超えた時点で、私は持たされていたブザーを強く握りしめた。ゲームオーバー。

 

 

その後、頭の中で「イメージ」を強く描いて再挑戦した結果、難なくやり過ごすことができた。

(ほら、やっぱり)

こうなることは分かっていたので、別に驚くことはない。だが悔しいのは、なぜあの時、つまり沼に足を引きずり込まれそうになった時に、この意識転換ができなかったのかということだ。今できるのだからあの時だってできたはず。結果的には「ドラスティックな転換をする」という強い意志がなかったからこそ、あのザマだったのだ。

いま思い出しても悔しいし情けない、むしろ恥ずかしい。

 

どうかもう一度、あの音と対峙したい。しかも最初から意識を外へ持っていくのではなく、頭痛に意識があるところからイメージを切り替えて、負のスパイラルを断ち切る作業をしてみたい。

すべては思い込みだ、強く思い込めれば間違いなくコントロールできる――。

 

坂道を転げ落ちる前に、そう、落ちかけた時に試してみたいのだ。それができなかったことだけが、心残りで悔やまれる。

 

サムネイル by 希鳳

 

Pocket