「今夜は月が真上に来るらしいよ」
実家の母からこんなLINEがあったわたしは、「どうでもいいんだけど・・」と思いながらも、念のため確認しておこうとベランダへ出た。
(そういえば、今日外へ出るのはこれが初だな)
本日は朝から一歩も外出していないため、自宅敷地内ではあるが外の空気に触れるのは夜になってから・・という、決して健康的とはいえない生活リズムのわたし。それにしても、外は寒い上に空気が澄んでいて、都心にもかかわらず空には冬の星座が輝いていた。
(なんだっけ、あのリボンみたいな形の星座・・)
小学校で習った記憶のある——たしか、オリオン座だったろうか。カシオペア座と混同しがちな知名度なので自信はないが、まぁそんな感じの星座を久しぶりに見た気がする。
そして肝心の月は・・と天を仰ぐも、月がどこにも見当たらないじゃないか。星がこれだけ見えているのだから、月が見えないはずはない——あ、真上に見えるとか言ってたな。
念のためネット検索してみたが、南中高度(月の高さ)がもっとも高いのは冬至の頃であり、冬至といえば12月の後半だからもう一カ月半も前の話である。ならば、「もしかして、満月と間違えたのか?」とこちらも確認してみたが、どうやら満月になるのは来週らしい。
では、「まさか、長野市だけ特別に真上に見える時期があるとか?」などと色々検索するも、結局、母が「月が真上に来るらしい」と言った根拠は発見できなかった。
それにしても、ベランダからなんとなく夜空を見上げても月は見えない。要するに、もっと首を反らして真上を向かなければ、視認できないほどの角度に月はあった。
(こうなったら、なにがなんでも月を見なきゃ気が済まない・・)
そう思ったわたしは、ヤクの靴下のままベランダの際にのぼると、顔を突き出し真上を見た——あ、あった!
たしかに月は真上にあった。あくまで感覚的な話なので、天文学的にいったら「真上」ではないかもしれないが、かなり体をよじって上を向いているのは事実で、真上といっても過言ではない。
だが残念なことに、”強度近視メガネあるある”のせいで月の形がグニャっとしている。おまけに、色がオレンジ色っぽかったり青っぽかったり、いくつかの輪っかが見える状態。この状況を打破するには、月とレンズと目が直線的になる必要がある——つまり、もっと身を乗り出して上体を捻るしかないわけだ。
その時、ふと思ったことがある。「もしかすると、マンションから転落して命を落とす者の中には、こうやって大した理由もなく『ついうっかり』で、この世を去ったケースもあるんじゃないか」と。
加えて、わたしのスマホではYouTubeがランダム再生されており、ちょうど都市伝説系ユーチューバーのチャンネルが流れていた。これらの偶然を踏まえて、「もしもわたしが転落死したら、『陰謀論や都市伝説に興味があった故人は、ここ最近メンタルを病んでいる様子がうかがえ、さらに試合前で緊張とストレスを抱えていた模様。それらも重なり、陰謀論に関する動画の影響を受けて飛び降り自殺を図ったのではないか・・と推測される』と、まるで見当違いな死因・・というか、死に至るまでの経緯を作り上げられるんだろうな」と考えた。まさに死人に口なし——。
仮に誤って転落死したとしても、メンタルだの陰謀論だのくだらない理由でわたしの死を盛らないでもらいたい。ちゃんと「天上の月をハッキリと見るために身を乗り出したところ、誤ってフェンスを越えてしまい無念の死を遂げた。なお、靴を履いていなかった理由は”ただ単に面倒くさかったから”とのこと」と、事実を公表してもらいたいのである。
(いや待てよ・・月を見上げるためだけにマンションの最上階から身を乗り出して、不安定な体勢をとろうとすること自体、「バカじゃねぇの?」ってなるんじゃ・・・)
わたしが身を乗り出す理由は、「メガネのせいで歪んで見える月を、ハッキリ見るために真上を向くこと」であり、断じて自殺を図ろうとしているわけではない。とはいえ、こちらにその気がなくともフェンスが劣化していて崩壊する可能性が、ゼロとはいえない・・いや、このマンションに限っていえば、かなりの確率で劣化もしくは腐敗している可能性があるじゃないか——。
つい最近、「天井から汚水が降ってくる事件」を体験しているわたしは、この部屋をまったく信用していない。無論、気に入ってはいるのだが、安らぐこともできず常に緊張感と猜疑心をもって滞在しなければならず、自宅というよりアジトである。
だからこそ、調子に乗ってフェンスから身を乗り出せば、まさかの崩落事故が起きかねないし、わが家だからこそその可能性は高いといえる——よし、やめておこう。
危機察知能力に長けているわたしは、月をハッキリと見ることよりも命の安全を優先した。通常ならばありえない事故でも、この家ならば・・いや、わたしならば起こり得るわけで油断禁物だからだ。
——というわけで、なんのためにベランダに出たのかよく分からないまま、室内へと逃げ帰ったのであった。
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