車掌青年

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「恵比寿駅ぃ、お出口は左側です」

混雑する山手線車内に、穏やかな車掌の声が流れた。大勢の人間が乗り降りする中、わたしの目の前で的確な指示が響く。

「前のお客さまに続いてお進みくださぁい」

耳を澄まさなければ聞こえないほどの声量だが、騒がしい車内でもしっかりと届くあたり、さすがはプロである。

 

「次は渋谷、渋谷です。東横線、田園都市線、井の頭線、銀座線、半蔵門線、副都心線はお乗り換えです」

渋谷駅での乗り換えほど苦痛で面倒なものはない。だったら遠回りしてでも、もう少し分かりやすい駅を選ぶべき。

「お足元にご注意ください」

電車とホームとの間に、たしかに大きな空間ができている。渋谷駅のホームがカーブしているからだろうか・・すべての車両がそうではないにせよ、なんともタイムリーで気の利いたアナウンスである。

「前のお客さまに続いて、中のほうまでお進みぃください」

 

(・・・え?)

 

目の前で起こる現実とピッタリマッチするアナウンスに、感動よりも違和感を覚えたわたしは、まさかの己の耳を疑った。なぜなら、この車掌の声は車内のスピーカーから流れているのではない。わたしの左に立つ、影の薄い青年の口から発せられていたのである。

マスクで口元は隠されているが、これは確実に彼の声だ。ぼーっとした表情で指先をいじりながら、当たり前のようにアナウンスを続けている。しかも独特の"車掌訛り"は、本物の車掌と遜色ないほど流暢でリアル。

おまけに、よくよく観察してみると、バレない程度に乗車口から顔を出して、ホームの安全を確認しているではないか。そして、

「駆け込み乗車はおやめくだぁさい」

などと、満員電車に飛び込んで来た愚かなサラリーマンに向かって、小声で囁いているのだ。とはいえ、マスクの下でモゴモゴ呟いているだけなので、その注意が聞こえているのはわたしだけなのだが。

 

人混みに押されて、わたしは車掌青年と向き合う形になった。彼はチラッとこちらを見るも、再び指先を見つめながら「次は代々木ぃ、お出口は左側です」と、相変わらず的確なアナウンスを続けた。

髪の毛や肌質から想像するに、20代半ばだろうか。学生にも見えるし、社会人でもおかしくない容姿だが、もしかすると車掌業務の経験者なのかもしれない。

なぜなら、鉄道オタクというにはちょっと足りないというか、鉄オタ独特の雰囲気は感じられないからだ。むしろ、仕事熱心で真面目な青年に見える。与えられた業務を粛々と遂行するも、決して仕事に私情を挟まない・・そんなドライなイマドキ男子に見える。

 

ではなぜ、彼は車掌を辞めたのだろうか。いや、今日が非番なだけで、まだ続けている可能性もある。だが、なんだろう・・この悲し気な表情と慣れた口調のミスマッチは——。

車掌の業務は好きだが、上司とのそりが合わなかったのか。はたまた、親の介護で勤務シフトがこなせなくなったのか。いずれにせよ、彼自身の判断で率先して退職したわけではなさそうだ。ではなぜ——。

 

彼にとって車掌はある意味"天職"だった可能性がある。その理由の一つに、圧倒的なアナウンスの上手さが挙げられる。

走行中、かなりの騒音であってもしっかりとメッセージを伝えるべく、車掌が独特なトーンと口調でアナウンスをすることは、諸説あるがわりと有名な話。そんな"車掌訛り"を完璧にマスターした彼が、若くして鉄道会社を自己都合で退職するなど、到底考えられない。だからこそ、無意識に口を突いて出る車内アナウンスに加えて、乗客の安全確認まで行ってしまうのだ。

(・・キミの退職理由は、なんだったんだ?)

これでもわたしは社労士の端くれ。未来ある若者の悩みを聞くことは、プロボノの一環として意味がある。ならば——。

 

とその瞬間、電車は新宿駅に到着した。そして、大勢の乗客とともに車掌の彼は人混みへと消えていった。

 

 

こうしてわたしは、彼が車掌を辞めた本当の理由を知ることなく、一人電車に取り残された。

仮にわたしが車掌を目指したとして、彼ほどの流暢なアナウンスを口にすることができるだろうか・・否。この世には"適材適所"という言葉があるように、どんなに頑張ってもセンスの有無で達成できないことが山ほどある。

そして、それこそが社会の厳しさであり、目を逸らすことのできない現実なのだから。

 

(——ていうか、彼は本当に車掌だったのか?)

 

Illustrated by 希鳳

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