地下鉄に乗るとき、わたしは予め乗り降りに有利な車両を選ぶことにしている。言い換えれば、目的地に最短でたどり着ける経路を選びたいので、そのためにも乗り換えなり出口なりへ無駄なく移動できる車両に乗るのだ。
とくに、都内で地下鉄を利用する際は乗り換えの機会が多い。さらに出口改札も複数あるので、目的地へ向かいやすい改札を通ることがとても重要となる。
たとえば新宿、渋谷、池袋駅などは、出口を間違えたら大変なことになる。駅から徒歩3分の場所へ行くにも、真逆の出口から計れば10分以上かかることも。そのくらい、出口ひとつとっても油断できないシビアな環境が、都会のマンモス駅にはあるわけだ。
そして今、わたしは溜池山王駅で南北線から銀座線へと乗り換えたところである。溜池山王駅は、自宅の最寄り駅である白金高輪駅から3駅目で、銀座線と千代田線、そして丸ノ内線への乗り換えができる。
といっても、千代田線と丸ノ内線は駅名が変わり「国会議事堂前駅」へ、溜池山王駅から地下でつながっているわけだが。
ちなみに余談だが、銀座線の溜池山王駅から丸ノ内線の国会議事堂前駅までは、南北線と千代田線のホームを踏破した上で、上ったり下ったりを繰り返し、まるで人生のような紆余曲折の末にようやくたどり着くことのできる、およそ10分間の小旅行となるので注意が必要である。
・・話を戻そう。溜池山王駅での南北線から銀座線への乗り換えは、南北線の目黒方面側の車両に乗るのが正解だ。そしてホームの端にあるエスカレーターを上りきれば、そこはもう銀座線のホームとなる。
ところが、誤って浦和美園方面側の車両に乗ってしまうと、ホームを丸ごと歩かなければならないため、相当な時間ロスとなる。都営浅草線の三田駅や半蔵門線の永田町駅なども同様に、車両の前後を間違えると次の乗り換えに間に合わないこともあるのだ。
これらのことから、スムーズな移動のためにも「乗るべき車両に乗車する」という、暗黙の了解が存在するのである。
アプリやネットで乗換案内を使うと、溜池山王駅での南北線⇔銀座線の乗り換えは5分以上の余裕を持たせている。そこでわたしは、南北線の到着時刻と銀座線の発車時刻をそれぞれ別個で調べ、1分差ならばそのタイムスケジュールで移動することにしている。
無論、事故やトラブルで電車が遅れれば、1分などあっという間に覆されてしまうため、その場合は一本後の銀座線に乗る羽目となる。だが、ちょっと走れば一本前の電車に間に合う喜び、いや、優越感というのは、何にも代えがたい満足と充実を味わえるため、やめられない。
そしてわたしは、今日もダッシュで階段を駆け上り、到着したばかりの銀座線の先頭車両へと滑り込んだのだ。
・・ここまではなんの問題もない。いつも通りに、扉が開いた瞬間に走り出し、グッドタイミングで銀座線が到着するという、まさに「効率的な成功」を絵に描いたような、見事な流れを築くことができた。
だが今日は、なぜか先頭車両が激混みだった。乗り換えに便利なこの車両が、普段から混雑することくらい承知している。ところが、そんな「普段」を大きく上回るほどの乗客で、圧死の恐怖が脳内をよぎるほどギュウギュウ詰めになっていたのだ。
一本遅らせるという選択肢もなくはないが、これで次の電車も混雑していた場合、なんだか馬鹿らしくて帰宅しそうである。そのため、迷った挙げ句にこの満員車両へ突撃することに決めた。
(どうせ一駅しか乗らないんだから、このくらい我慢しなければ・・)
痴漢にあったことが人生で一度もないわたしは、もしかするとこの機に初体験を迎える可能性もあるわけで、その瞬間を何度もシミュレーションした。が、言うまでもなくそんなことは起きなかった。
むしろ可愛らしい女子たちに囲まれる形で、わたしの位置が決まったのである。
(・・・ん?)
目の前の女子の前髪が揺れている。しかも一定のリズムで、フワッと浮いたり戻ったりしている。まるで風が吹いているかのように――。
(わ、わたしの鼻息だ!!!)
吸って、吐いて。吸って、吐いて。わたしの呼吸に合わせるかのように、彼女の前髪が動いているではないか。こ、これは間違いなく気持ち悪い!!
そもそも、他人の鼻息がモロに当たる状況など、日常生活においては非常に稀であり、なおかつ、あってはならない距離感といえる。それなのに今、目の前でそれが起きているわけで、どれだけ歪曲しても気のせいではない。
わたしは慌てて顔を右へと反らした。何はともあれ、早い段階で気が付いてよかった――。
安堵したのも束の間、今度は、彼女の左前髪がそよそよと揺れているではないか。わたしの顔は彼女のさらに向こうを見ている。それなのに、いったいなぜ?!
(そうか、呼吸は片方の鼻の穴だけで行われる。そして今、わたしは左の鼻の穴で呼吸していると・・・)
そう、ネーザル・サイクル(交代制鼻閉)によるものだ。鼻呼吸の仕組みとして、どちらか一方の鼻はつまった状態にあり、およそ2~3時間の周期で左右が交替する。これは自律神経の働きによるもので、正常な生理的現象なのである。
とはいえ、女子の前髪から20センチの距離にあるわたしの鼻の穴から、定期的に吐き出される空気をコントロールするのは至難の業。
(な、ならばゆっくり吐き出せばどうだろうか?)
何度か試してみるも、吐く息を不自然に抑えるためか微妙に息苦しくなってきた。
(そうだ、左を向けばいいんじゃないか?)
左の鼻の穴から息が出るのだから、だったら思いっきり左を向けば解決できるのでは・・・と考えたわたしは、グイッと首を左へ回した。
――目の前には、別の女子の横顔があった。
こんなとき、マスクがあればよかったと思わざるを得ない。マスクさえあれば、どれだけ深呼吸を繰り返しても、他人への「鼻息による害」を防ぐことができるからだ。
まさかこんなところで、マスクの価値を痛感させられるとは思わなかった。だが今は、一刻もはやく赤坂見附駅に到着することを祈るのみである。彼女の前髪がフワフワと揺れ動く「奇妙で不快な現象」を、一刻もはやく止める必要があるからだ。
(満員電車に乗る時は、鼻息の方向を確認した上で立つ位置をキープしよう・・・)
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