白金の用心棒、「民家の天然柿」を貢がれる

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とある日の深夜、わたしの稼業の一つである「用心棒」に対して、遠回しに仕事の依頼・・というか貢ぎ物が届いた。

「こちらをお納めください」

レジ袋をのぞき込むと、そこにはたくさんの柿が詰められてあった。

「・・うむ。苦しゅうない」

このように、白金界隈に転入してきた者は身の安全を確保するべく、用心棒にそれなりの貢ぎ物を送る・・という慣習が存在するのである。

 

貢ぎ物の種類を指定した覚えはないが、いつの頃からか風のうわさで「手料理」「果物」あたりが間違いない・・ということになった模様。それを聞きつけた新入りが、親族宅の庭でたわわに実った柿を、レジ袋に大量に詰めて献納してきたわけだ。

偶然にも、ラスト一個のおけさ柿を本日の昼に食べ終えたばかりのわたしは、そろそろ果物を買いに行かねば・・と思っていたところだった。——うん、ドンピシャのタイミングである。

 

それにしてもこの柿は、形は不格好で大きさも不揃いだが、そこがまた自然を象徴していて美味さが際立つ。得てして高価な果物というのは、サイズが大きくて見た目が美しい傾向にあるが、それはわれわれ人間の思い上がりであり果実に罪はない。

そもそも、「デカくて美しいものこそが美味い」とは限らないし、「食事は見た目が重要」というのも否定しないが、その場合の見た目は「高価であること」ではない。いかに食べ物としてのポテンシャルが溢れているか、そして、いかに自然を満喫して育ったかが見て取れる見た目こそが、重要な要素なのである。

 

とくに果物というのは、その辺りの内情が如実に表れるから恐ろしい。スーパーやコンビニに並ぶ果実たちに耳を傾ければ、多かれ少なかれ悲痛な叫び声や恨み節が聞こえてくるわけで、幸せに出荷された個体は本当に少ない。

だがこれは、社会生活を営む上では致し方ないことでもある。市場に送り込むためには流通ルートに載せなければならず、そのためにはある程度のサイズ感や色味など、基準を設けて選別する必要があるからだ。

 

よって、どんなに綺麗ごとを口にしようが、否定することのできない現実から目を背けてはならない。たとえば、育てるヒトがいて運ぶヒトがいる。そして、販売するヒトがいてわれわれ消費者がいるわけで、どれか一つを欠いても果物を口にすることはできないのだ。

それを、今回の新参者は真ん中のルートをすっ飛ばして、生産者から直で新鮮な柿を確保し、献上してきたのだからあっぱれである。さらに後日、追加で100個の柿が届くとのこと。これでしばらくは、わたしの胃袋も安泰である。

 

天然の柿だから、食べ方もワイルドにいこう——。そう思い立ったわたしは、さっそくTシャツの裾でキュッキュッと柿を拭うと、そのままがぶりと齧りついてみた。

(・・うん、美味い)

すると、なにか硬いものが歯に触れた。——おぉ、これは種だ。

 

それにしても「柿の種」とはよくぞ言ったものだ。そもそも、あのちっちゃい煎餅で有名な柿の種は、大正時代末期に偶然というか失敗から生まれた「奇跡の産物」なのだから。

日本有数の米所・新潟県長岡市のとある小さなせんべい店で、せんべいではなく「あられ」を作ろうとしたところ、あられ作りで使用する予定だった型抜き型を誤って踏みつぶしてしまい、買い直すこともできずにそのまま使用することとなった。そうして出来上がったあられの形が、歪んだ小判のような形をしており、それすなわち新潟の名産である柿の「種」に似ていたことから、「柿の種」と命名されたのだそう。

・・なるほど、こんなところにも「失敗から生まれた傑作」が存在していたとは、驚きである。とはいえ、言われてみれば失敗でもしない限り、わざわざ「柿の種の形をした小さな煎餅を作ろう!」などとはならないわけで、ある意味納得である。

 

そんなこんなで、今日の昼まで食べていた数十個のおけさ柿には種が入っていなかった。そう、おけさ柿とは種無しの渋柿だが、出荷前に渋抜きされているので、店頭に並んだおけさ柿は甘くて食べやすい状態となっている。

もちろん、種無しのおけさ柿も美味いし食べやすかったが、こうして民家の庭で育った「天然、種有り、名無し柿」も、自然の風味たっぷりで非常に美味い。なによりも不格好でいびつな見た目こそが、厳しい環境を生き延びた証。そんな「野性」を感じさせる見た目と味こそが、果実本来のうま味なのだから——。

 

 

こうしてわたしは、献上品である「民家の天然柿」を6個食べたところで、柿胃石の三文字が脳裏をよぎったため、慌てて手を止めたのである。

 

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