ぎっくり尻

Pocket

 

(やばい、一歩も歩けない・・・)

柔術の練習が終わると、一列に並んで正座にて礼をした後に全員と握手を交わす・・というのが、われわれのアカデミーの慣習。だが、正座をした時点で右の股関節に怪しい痛みを感じたわたしは、立ち上がったはいいが足を前に出すことができなかった。

しかも黒帯から順に握手をするので、わたしが動かなければ後ろが詰まってしまう。だからこそ、足を引きずってでも前へ進みたい気持ちはやまやまなのだが、いかんせん右足が言うことをきかない。

結局、わたしだけがその場に留まる形で、なんとか全員との握手を終えたのだ。

 

もちろん、その後も股関節というか中殿筋あたりの痛みは消えず、両足ならばなんら普通に立っていられるが、右足のみに体重を乗せると激痛が走るため、とてもじゃないが歩けない。だが、四つん這いになればいくらでも動き回ることはできるので、室内ならばどうにかなりそう(カフェでそれをやったら、おそらく出禁になるだろうが)。

とはいえ、このまままここへ居座るわけにもいかないし、なんとか前へ進まなければならないわたしは、左足でケンケンしながら更衣室へと向かったのである。

 

 

ジムを出たわたしは、目と鼻の先にある駅の入り口(エレベーター)を目指して、道路を横断するべくゆっくりと歩き出した——ダメだ、左足が前に出ない。案の定、どうやっても右足に体重を乗せられないため、歩くどころか足を引きずることすらできなかった。

しかし、歩道の際にあるガードバイプを手すりにして、なんとか車道の手前まで進んだところで、少しだけ「コツ」みたいなものを掴んだ。つま先側で地面を蹴ると激痛が走るが、かかと側でいったん体重を受け止め、いい感じのところで一瞬左足を浮かせると、わずかだが前へ進むことができるのだ。

(よし、これを繰り返すしかない)

こうしてわたしは、尺取虫よりも遅いスピードで車道の手前から中央までの移動に成功したのである(ジムを出てからここまで、およそ6メートル)。

 

——だが、事件はそこで起きた。

 

反対車線を越えればいよいよ駅の入り口・・というところで、T字絽を右左折するべく連なっている車の間を横切らなければならないわたしは、車に迷惑をかけないようタイミングを見計らっていた。するとそこへ、一台のスポーツカーがゆっくりと近づいてきて、目の前で止まったのだ。

運転手のほうを見ると、サングラスをした男性が「どうぞ」と手で合図をしてくれている。あぁ、なんて優しいメンズなんだ・・・ではないっ!!今のわたしは尺取虫よりも前進が遅いわけで、そんな親切をされたら逆に迷惑なのだ。

そこでわたしは「いえいえ、お先にどうぞ」と、同じく手で合図を送った。しかしながら、男性も負けじと「この世は歩行者優先なんで、どうぞ安心して渡ってください」と言わんばかりに、再び「どうぞどうぞ」とやってくるではないか。

 

(このくだらないコントを続けていたのでは、ほかの車に迷惑がかかる。かといって、わたしが横断を始めたらそれこそ大渋滞を作る羽目に・・どうにかして、この車を先に行かせねば)

 

そこでわたしは、自分の右足を指さしながら「足が痛いんで、さっさと歩けないからお先にどうぞ!」というジェスチャーを見せた。これで間違いなく、この車は行ってくれるだろう。

ところが、なぜか男性は「それならばなおさら、僕が安全を確保するんでゆっくりと渡ってください」という顔で、どうぞどうぞを繰り返すではないか。いったいなぜ——。

ふと男性の視線の先を見ると、そこには警察官が立っていた。なるほど、警察官が見ているから、歩行者を先に行かせようとしたのか・・。

 

しかしながら、今まで何度も「どうぞどうぞ」を繰り返しただけで、かなりの車両を待たせているのは事実。それなのに、今から尺取虫が横断しようものなら、さらに列が伸びるのは必至。・・さすがに「それだけは避けなければならない」と考えたわたしは、両手を合わせて祈りのポーズを作り「頼むから先に行ってくれ!」という意思を表した。

すると男性は、何を勘違いしたのか「いいんだよ、ゆっくり進みなさい」という表情で、どっかりとシートにもたれかかると腕を組んで”見守り態勢”に入ったのである。

(・・まさか、この合掌のポーズを「感謝の表明」だと思ったのか?!)

 

こうなったらもはや後へは引けない。覚悟を決めたわたしは、自分の中では最速のスピードで、しかしながら現実的には尺取虫と争うほどの遅さで、ノロノロと・・いや、ノロノロという擬態語すら使えないほどの速度でアスファルトを蹴り続けた。

スポーツカーの男性が、どれほど驚いた表情で見守ることとなったのかは想像に難くない。まさかこんな”遅さ”で横断されるとは、あの警察官だって予想だにしなかったはず。おまけに、見た目はどう見ても健康体で、むき出しの腕は隆起した筋肉で覆われており、とてもじゃないが怪我人とは思えないビジュアルゆえに、彼らは一種の「錯覚」を体験したかもしれない。

とにかく、恥も焦りも捨て去り「無の境地」に入ったわたしは、自分のペースで着実に移動を果たしたのである(「どうぞどうぞ」のコントからここまで、およそ3メートル)。

 

そして、念願の”駅の入り口”へたどり着いたのは、ジムを出てから10分以上経過してからだった。振り返れば目の前にジムがある——ここまでの距離、およそ10メートル。

10メートルの移動に10分かかったのでは、2キロ離れた自宅まで何時間かかるのだろうか。電車での移動がほとんどだとしても、この調子でいくと駅のホームまで半日かかる計算なわけで・・・。

 

 

結果的に、3時間15分かけて凱旋帰宅を果たしたわたし。

普段ならば15分程度の距離なのに、歩けない(足が痛い・・とかではなく、本当に歩けないという意味で)だけでこれほどの移動時間を要するとは、二足歩行の人間にとって足は重大な弱点といえる。

もしも、四足歩行が許容されるならば個人的には問題ないが、社会的には大問題となるわけで、とはいえ二足歩行が無理ならば一足か四足の選択になるのだから、状況によっては四足もやむを得ない場合だってあるはず。

 

とにもかくにも、「ぎっくり腰」の尻または股関節バージョンをやってしまったわたしは、健康体にもかかわらずしばらくは自宅でじっとするしかなさそうである。

 

Pocket