ここ最近、スイカの話題ばかりを取り上げている気もするが、だからといってスイカ業界の回し者というわけではないし、仮にそうだとしても喜んでアピールするわけだが、とりあえず本日もスイカの話題である。
丸ごとあるいは6分の1カットのスイカのポテンシャルに惚れ込んだわたしは、かつて陳列棚を空っぽにする勢いで買い占めていた"カットスイカ"の存在を、きれいさっぱり忘れ去っていた。なんせ、味といいボリュームといい文句の付け所がない丸ごとスイカなのだから、あえて下位互換に手を出す必要はないわけで。
そんなことからも、カットスイカが並べられているエリアすら、通ることもなかったのである。
ところが今日、立ち寄ったスーパーでふとカットスイカの棚に目をやったところ、あるわあるわ——大量に売れ残ったカットスイカが山積みになっていた。そりゃそうだ。このわたしが買い漁らないとなれば、在庫が出るのは至極当然。とはいえ、これじゃスイカが可哀想だな・・。
切り刻まれたことで鮮度を落としたスイカたちは、ただただ死を待つのみの存在。その上で売れ残ろうものなら、彼ら彼女らの無念は計り知れないだろう。
(どれどれ、ちょっくらわたしが診てあげようか・・・)
久しぶりにカットスイカの前に立ったわたしは、その姿に愕然となった。賞味期限は明日だが、スイカの果肉がグズグズじゃないか! 果肉が熟し過ぎており、もはや深紅に染まっているのだ。——これは、スイカの末期である。
健康体の食べごろスイカは、果肉の赤に元気が漲(みなぎ)っている。真っ赤というよりやや朱色がかったような、見るからに美味そうな赤色がスイカの象徴。それなのにここに並ぶスイカたちは、青果物が劣化すると色味が悪くなるように、健康な赤色から死が迫る深紅に変色していたのだ。
——哀れだ、これはあまりに哀れである。
グズグズになった深紅の果肉を見比べながら、その中でもマシ(と言うしかない)な個体を4つ選び、買い物かごへそっと並べた。わたしが"丸ごとスイカ"に現(うつつ)を抜かしている間に、かつてのパートナーはこんなにも劣化してしまったのだ。これはわたしにも責任がある、ちゃんと葬ってやらなければ。
こうして、帰宅するや否やカットスイカをテーブルに並べると、弔い合戦を開始することにしたのだ。
しかし、何度見ても哀れな姿である。こんな惨めに衰えたオマエとは、できれば対面したくなかった。あの頃のように、ハリとツヤのある夏の権化のようなオマエが好きだったんだ・・。
過去の思い出が走馬灯のようによみがえる中、フタと器を貼りつけてあるセロハンテープを丁寧に剥がし、カットスイカを鷲掴みしようとした瞬間——。
(あっっっっっ!!!!!!)
なんと、剥がしたと思っていたセロハンテープの端っこが、ちょっとだけ器に貼りついていたのだ。そのため、フタを取る勢いで器ごと持ち上げてしまった結果、中身のカットスイカをすべて床へぶちまけてしまったのだ。
テーブルの隅に置いたのが悪かったのだろうか。いや、セロハンテープが完全に剥がれたことを確認しなかったのが原因だ。なにより、このスイカがあの世へ行く寸前だったことが事の発端。そんな死にぞこないのせいで、クソ面倒くさい清掃作業を強いられる羽目に——。
怒りにも似た後悔がふつふつと湧き上がってくる。熟れすぎてボロボロの果肉は、落下の衝撃でいたるところへ飛び散っているし、スイカジュースが作れそうなほどの果汁も、広範囲に流れ出ている。あぁ、これを掃除するのか・・・。
ため息混じりに床を見下ろしながら、グズグスの赤い塊を拾い始めるわたし。一口も食べてないのに捨てるのか——いや、洗って食べよう。
例えは悪いが、まるで人肉の破片のような熟れた果肉は、売られていたころよりもさらに歪な形へと変化していた。それらが無惨にも床へ飛散しているわけで、とてもじゃないが美しくはない。だが、カットスイカに罪はないのだ。すべてこのわたしのミスによるもので、後始末をするのもわたしの責任である。
角が丸くなった過熟スイカをかき集めると、キッチンへ持っていき水道水で洗い流した。洗えば洗うほど、グズグスの果肉が溶けては消えていく。最終的に残ったのは、当初と比べると半分程度に減ってしまった、生ごみ同然のスイカの欠片だった。
とりあえずひとかけらつまむと、口へと放り込んだ——うん、熟れすぎている。
*
カットスイカとは哀れである。鮮度を奪われ、ニンゲンの都合で床へ叩きつけられたり水道水で身を削がれたり、こんな扱いを受けるために生まれてきたわけではなかろうに——。
そんなことを思いながら、あっという間に弔い合戦は終了したのであった。
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