カメラが趣味の人・・というのは、羽田空港や成田空港で飛行機の撮影をする傾向にある。カメラ好きな友人らも、離陸・着陸の瞬間を見事におさめており、まるでプロのような素晴らしい作品を披露しているからだ。
とくに「離陸」というのは、人類にとって胸が高鳴る瞬間といえる。なんせ、羽の生えていない人間にとって、空を飛ぶことは永遠の夢であり憧れでもある。そんな"自分たちでは実現不可能な状況"を飛行機は完璧に再現するわけで、海の向こうの世界を夢見ては、ため息をついたり目を輝かせたりするのである。
対する「着陸」は、ある意味"現実への帰還"でもあるため、心躍るというよりは夢から覚める気分だろう。人間が自力で地上から離れられるのは、せいぜいジャンプの一瞬だけ。そのため、飛行機の力で地面から離れていた乗客たちも、現実へと引き戻される瞬間が「着陸」なのである。
地球には重力があるため、物体は放っておいても上から下へと移動する。その原理を利用した競技・・たとえば公園の滑り台やスキーのジャンプ台といった、下降を助長する器具や装置を見たところで、個人的には気持ちが流行ることはない。
それでも、上向きの何か・・たとえば天を指さす古代ギリシアの銅像や、遠くにいる恋人を想い手を伸ばすポーズのバレリーナなど、上方を示す姿は美しいしエネルギーを感じるのだ。あの坂本九氏も、「上を向いて歩こう」と繰り返し熱唱するわけで、やはり上方向にはポジティブな何かが内包されているのである。
——そして今、わたしは"完璧な離陸体勢に入った戦闘機"を見つめていた。うぅん、離陸にしては角度がつきすぎているか。30度・・いや45度くらいは上向いているわけで。
これだけの圧倒的な上昇角度で飛び立った戦闘機は、地球を離れて遥か宇宙へと向かうのかもしれない。あぁ、なんと素晴らしい光景なんだ——。
「ひゃぁぁぁ!!」
オンナのか細い悲鳴が響いた。それと同時に、わたしが見ていたものが戦闘機ではないことに気がついた・・・やっぱり、これが現実なんだな。
そう、わたしが目を細めて見つめていた戦闘機なるものは、実際には"右足の親指の爪"だった。見事な角度で指先の肉から剥がれた爪は、根元付近から天に向かって鋭い牙をむいていた。
親指の爪は割れたり折れたりしながらも、大部分はハッキリと上方を向いており、無言の圧力というか強い意志を感じる。うっすらと血が滲んでいるが、肉から爪を剥がしたのだから当然の結果だ。そして生きている証である「痛み」を感じていた。あぁ、わたしは生きているんだ——。
その昔、親知らずを抜く際に歯科医の友人が、
「痛かったら手を挙げてね」
と言った。その言葉に従って、何度も手を挙げるわたしに対して、彼女は「ちょっとだけ我慢して」「あと少しだから我慢して」「もう終わるから我慢して」と、手を変え品を変え痛みを堪えさせたのだ。
そして抜糸が終わると、涼しい笑顔で彼女はこう言った。
「痛かったら手を挙げて・・って言っただけで、治療を止めるとは言ってないじゃん。あと、傷みを感じるってことは生きてる証拠だよ」
ポカンと口を開けたまま、わたしは妙に納得した。たしかに、死んだら痛みは感じない。おまけに、「痛い」ということは神経が正常に機能しているからで、神経に触れても痛くなければ、そっちのほうが問題だ——。
あれ以来、わたしは痛みにめっぽう強くなった。骨が折れても靭帯を切っても爪が剥がれても、痛みを感じるのは生きている証なのだ・・と言い聞かせることで、強烈な痛みすらも愛おしく感じるようになったのである。
*
とりあえず、エグい角度で飛び立とうとする親指の爪を強く押さえつけると、テープでグルグル巻きにした。この場合、"怪我慣れ"しているわたしよりも、ガッツリと剥がれた爪を目撃してしまった他人のほうが、その光景が脳裏に焼き付きトラウマ級に怯える・・という事実に、これまた新たな発見をした気分である。
(にしても、ちょっと沁みるな・・・)
シャワーを浴びながら、ズキズキ痛む右足の親指をギュッと踏んづけるのであった。
コメントを残す