ぐりーんでい

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今日はなにかと「緑色」に縁のある日だった。

「緑といえばなにを思い出す?」と聞かれれば、心が荒んだわたしは「カビ!」と即答するのだが、見方によっては「カビの緑」と「抹茶ラテの緑」とで、そこまでの違いはないともいえる。

 

そして、とくに緑色が好きなわけでもないわたしだが、食べものに関しては緑色を好む傾向にある。言うまでもなく頂点に立つのは、そう、抹茶だ。

あの深緑色の美しさときたら、どんな食べ物の味をもリセットする圧倒的な影響力と色彩センスを内包する。そしてほんのり際立つ苦味とまろやかな甘さが、泣く子も黙らせるアクセントとなっているのだ。

つまり「抹茶」というだけですべてが許されるほどに、わたしの中では超越した存在なのである。

 

しかしよくよく考えてみると、抹茶を口にしない日などないといえるほど、何らかの抹茶商品を毎日食べているわたし。たとえば今は、焼き抹茶ドーナツと抹茶の板チョコをモグモグしている。

(デコポンでこんなにも皮膚が黄色くなるんだから、きっといつかは緑色になるだろう——)

そう思わずにはいられないほど、抹茶尽くしの日々を送っているわけだ。

 

 

そんなわたしはさっき、別の「緑色」を食した。それはキュウリだ。

友人とタイ料理店で食事をしていたところ、キュウリ嫌いの彼女が生春巻きの断面をわたしに向けてきたのだ。そこで、箸を使ってそっとキュウリを引き抜くわたし。

とはいえ、生春巻きにおけるキュウリの役割は、完全に「歯ごたえ」だろう。キュウリのシャキシャキ感があるからこそ、その他のフニャフニャの具材を支え、最後まで真っすぐな状態を保ってくれるのだ。それなのになぜ、重要な役割を担う芯棒を抜いてしまうのか——。

 

それにしてもキュウリは、外皮の深緑色が見事である。中身は薄緑で大した魅力を感じないが、まだらに削られた外皮とのコントラストは美しい。

たかがキュウリだが、まるで抹茶をリスペクトしているかのような、濃い緑で身を包むその精神は高く評価してやろう。

 

 

帰宅後、わたしはそそくさと冷蔵庫を開けた。

ワンドアのミニバータイプのちんけな冷蔵庫だが、中央に設置された仕切り板を外して高さを確保。そこへ、頂き物のマスクメロンを鎮座させていたのである。

 

自腹で購入するのは難しい、気品あふれる高貴なフルーツ・マスクメロン。そんな高級果実を、気が利く後輩がプレゼントしてくれたのだ。

「すぐに食べちゃダメですよ」

どうやら少し寝かせた上で食べなければならないらしい。まったく、これだから高級品はいやなんだよ。今すぐ食いたいんだから、つべこべ言わずにかぶりつかせてくれよ——。

とはいえせっかくの機会ゆえに、最高の状態で食すのが礼儀である。わたしは後輩の指示に従ってメロンを2日ほど寝かせた後、実食の二時間前に冷蔵庫を開放し、火照った果肉を冷やしたわけだ。

 

こうして今、感動の対面に至るのである。マスクメロンのために用意した包丁を片手に、わたしは一人でメロン入刀を行った。

(おぉ、なんというスムーズで充実した手ごたえだ!これこそがフルーツの王様、マスクメロンの真骨頂というやつか・・)

真っ二つにされたマスクメロンのキラキラ輝く断面に見とれながら、カレー用スプーンを使って、中央にゴチャつく無数の種と繊維状のモヤモヤを取り除いた。そして「タネ選別機」のごとく、モヤモヤの繊維ごと口の中へ入れると種だけをププププと吹き出した。

(素晴らしい糖度だ。もはや言葉など不要・・)

こうしてわたしは、あっという間にメロンを一玉食べ尽くした。最後にスプーンの側面を使って、外皮ギリギリまでこそぎ取った。その時ふと、気が付いたことがある。

(こ、これは。まるで抹茶のような深緑色じゃないか・・・)

そう、果肉という果肉をすべて削ぎ落としたわたしは、外皮の裏側にまで到達した。そこはまさに、深緑色で覆われた「秘境」だったのだ。

 

あぁ、青果物というのは抹茶色が一番美しいのかもしれない。

 

 

まるで、子ども用ヘルメットのようなマスクメロンの残骸。しかも、外皮ギリギリまで削ったため、ヘルメットというよりはスイムキャップのようなカタチをしている。

そんなメロンの皮を、ゴシゴシと洗剤で洗いながら緑色への想いに耽るのであった。

 

Illustrated by 希鳳

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