知らず知らずのうちに「依存症」となっているものの一つに、スマホが挙げられる。ふと画面を見ると、スクリーンタイムの表示が出ていたのだが、なんと11時間22分という驚異の数字を叩き出していた。
(一日の半分もの間、スマホを見ているのか私は・・?!)
実際のところ、画面をジッと見ているというよりBGM代わりに動画や音楽を流しているのだろうが、それにしても二桁はさすがにまずい——。
思い返せば、わたしの一日はスマホで始まりスマホで終わっている。
まずはスマホのアラームで起床、そして目を慣らすべくSNSを流し見してから起き上がる。その足で洗面所へ向かい歯を磨くのだが、ただボーっと過ごすのももったいないので、動画を視聴しながらシャカシャカ。
そのままデスクへ直行し仕事へと移るが、当然ながら先ほどから見ている動画の続きを流したままパソコンを開く。場合によっては音楽をかけてみたり、アニメにしてみたり、はたまたカッコつけて海外のニュースを選んだりと、様々なBGMをチョイスするわけだが、とにかく常に何かが流れている。
もちろん、トイレへ行くにもスマホを携帯する。動画が途中だったり、メッセージのやり取りをしていたりと、スマホを手放せない事情があるといえばあるが、そうでなくても「もしもトイレで動けなくなったら、助けを呼ぶのにスマホがないと困る」という理由から、念のため同行させるのだ。
恐ろしいのは、ピアノの練習をする際にも譜面台にスマホを立てていることだ。”睡眠について”や”集中力について”など、脳の仕組みに興味があるわたしは、それらの動画を食い入るように視聴する。そのため、ピアノに集中するべき時間であるにもかかわらず、耳は動画の内容へ傾いている・・という、なんとも集中していない状態で指だけを動かしているのだ。
外出時など、それこそスマホで音楽を流しながら歩くので、選曲するにも電車の時刻を調べるにも、道より画面を見ている比率のほうが高い気がする。もちろん、電車に乗っても暇つぶしにSNSを開いたり調べものをしたりと、むしろ乗車時間イコールスマホをいじる時間といっても過言ではないくらい、スマホと共に過ごしている。
さすがに、柔術の練習中や友人との会話・食事中には、スマホの呪縛から解かれることとなるが、帰宅して風呂へ入ればネットフリックスでアニメを見るし、髪を乾かすにも洗濯物を干すにも常になんらかの音を流している。その流れでベッドへ入るのだから、当然ながら枕元にスマホを置いた状態で眠ることに——そして、いつの間にか寝落ちしており、気づけば起床のアラームでスマホに触れる・・という、恐るべき依存性を発揮しているのである。
そして、このスマホ依存症の最も恐るべき弊害として「何かを生み出す力、または考える力が衰える」ということが挙げられる。この副作用は顕著で、たとえばコラムを書くにもネタが浮かばない。正確には、「必死に考えようとしても、思考停止状態で頭が回らない」という感じで、脳みそが雁字(がんじ)がらめに縛られているかのごとく、思考の開始を拒むのだ。
さすがにこの状況に危機感を覚えたわたしは、開いていたアプリを閉じるとスマホをソファへ放り投げた——今はそれどころじゃないんだ、とにかくネタが思いつかなければ、まずいことになる。
音のない時間は、不思議なことに集中力が増すだけでなく、あらゆる感覚までもが敏感になる。加えて、思考が淀みなく流れることでどんどん深掘りできるのだ。エアコンの稼働音、外を走る車の音、近所の工事現場から発せられる騒音、そして蝉の声——。
社会生活を送る上で生じる不可避な音、いわゆる環境音というのは、動画などと比べると思考を止めることなく脳内を通過していくのが分かる——あぁ、わたしの脳がようやく解放されたんだ。
ピアノを弾くにも、指さえ動いていればいいわけではない。脳みそが音楽に向かっていなければ単なる”指の運動”で終わってしまうため、それは芸術とはいえない。
内在する感情を音で表現するのが音楽であり、そのためには自分自身で考えなければならない。その想いを体現するのが体であり指であり、結果として音となって放たれるのである。
さらに、睡眠時の”寝落ち動画”は脳にとって最も危険な行為といえる。言葉であったり笑い声であったり、何らかの「意識を持っていかれる音」により脳が刺激されるので、人間本体は眠っていても脳は起きている・・いや、無理やり起こされている状態なのだ。
このような状態で「質のいい睡眠」など得られるはずもない。その結果、脳の整理も修復もできないまま朝を迎え、疲労困憊の脳みそで何かを考えようとしたところで、いいアイデアなど浮かぶはずもない。
・・そんなこと、冷静に考えてみれば当たり前だが、その判断ができなくなるのが「依存症」の弊害なのである。
というわけで、環境音をのぞく無音状態こそが、脳にとって最大の贅沢であると結論付けたわたしは、ホワイトノイズ代わりのエアコンのモーター音と、夏の風物詩である蝉の鳴き声を背景に、黙々とタイピングに没頭するのであった。
(てか、下の階から響いてくる重低音が耳障りなんだが・・・)
おっと、それでもスマホに手を伸ばしてはダメだ。その迷惑な重低音すら受け止めて、思考の谷に潜る訓練をしなければ——。
現代社会というのは、集中力を阻害する因子が散りばめられた魔窟なのかもしれない。
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