「はい、これ恵那川上屋の栗きんとん!」
そう言いながら、母が白い小さな包みを差し出してきた。栗きんとんって、栗のあんこみたいなやつだよね?なぜあんこ嫌いなわたしに栗きんとんなんて出すんだ——。
帰省するなり、コーヒーのお茶請け(?)としてわたしの苦手なあんこっぽい和菓子が出てきた。しかも「あんた好きでしょ?」的な得意顔で、岐阜県からわざわざ取り寄せた模様。いったい、どんな勘違いが起きたらこうなるんだろうか。
「え?だって、栗おこわ好きじゃない」
素で驚く母を見て、わたしは「なるほど」と膝を打った。——最近多い"例のパターン"である。
たしかに、わたしは栗おこわが大好物である。中でも小布施・竹風堂の栗おこわには目がない。そのため、母はわたしが「栗好き」だと認識していたのだ。
これは先日起きた「干し芋事件」と似ている。焼き芋やスイートポテトが好きなわたしだが、干し芋は全くもって好きではない。だが「こいつは、さつまいもが好きなのだろう」だと認識していた友人が、大量の干し芋を届けてくれたのだ。
同様に、栗菓子——たとえばモンブラン——も好きではない。ましてや、正月料理の栗きんとんや栗の甘露煮など、箸をつけることもないほど好きではない。にもかかわらず、栗おこわ"だけ"は大好きなのだから、なんとも度し難いのである。
ところが、これが「バナナ」ならば話は変わるのだ。わたしはバナナが大好きだが、バナナケーキもバナナジュースも冷凍バナナもチョコバナナも、どんなバナナ加工品であっても全部好きである。むしろ、黒く熟した個体が好きじゃないだけで、まだ若くて緑色のシャキシャキバナナから普通の黄色いバナナまで、どのように加工されていてもバナナならば喜んで飛びつくわけで。
あとはトウモロコシもそうかもしれない。茹でトウモロコシも焼きトウモロコシも、コーンスープもコーンパンもとんがりコーンも、トウモロコシ製品はすべて好きである。
ついでに抹茶も同じだ。お濃茶に始まり、抹茶チョコも抹茶ケーキも抹茶風味の菓子や飲み物は、いずれも大好物だと断言できる。
それなのになぜ、サツマイモと栗だけは「一部」大好きな食べ方があるだけで、その他は好きじゃないんだろうか。
(・・まぁ、そういう食べ物もたまにはあるんだろうな)
そう思いながら夕飯を食べていたところ、またもや母がこう話しかけてきた。
「カボチャ好きでしょ、食べたら?」
・・・え? わたしがいつ、カボチャが好きだと言った??
栗おこわからの栗きんとんは理解できる。あれほど栗おこわが好きで、帰省のたびに大量に食べているのだから、そりゃ「栗好き」だと思われても仕方がない。
しかし今回のカボチャについては、生まれてこのかた一度たりとも、「好物である」という意思表明をした覚えはない。どこをどうしたら母の記憶はこのように改ざんされるのだろうか——。
「え? だってカボチャのおやき、好きじゃない」
・・・なるほど。
わたしは、いろは堂のおやきが大好物である。中でも、カボチャのおやきに目がないのだ。理由は、他の種類はどれもおかずっぽい中身だが、カボチャだけはちょうどいい甘みがスイーツを彷彿とさせるからだ。無論、あんこのおやきもあるが、それはわたしにとっては食べ物に該当しないためスルー。
いろは堂のおやきは、なんといっても生地がいい。ややもするとパンケーキなんじゃないか?と勘違いするほどの、モッチリ感とふんわりした噛み応えが絶品なのだ。
そんな素晴らしい生地の邪魔をしない具材が、わたしにとっては"カボチャ"だったというわけだが、そこまで誰かに説明したことなどないので、母がわたしを「カボチャ好き」だと思い込んでいたのも納得できる。
(素材自体が好きなものと加工品が好きなものとで、わたし自身には明確な違いがあるわけだが、他人にとってはいずれも「素材が好き」だと思われるんだな・・)
——年早々、学びの多い年である。
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