唇からスルメイカ

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冬といえば乾燥の季節。日本でもそろそろ、差し出した手に静電気の恐怖を覚えるシーズンが訪れる。

ドアを開けるとき、手前や奥に開ける「開き戸」のドアノブほど恐ろしいものはない。わたしの通うジムのエントランスは外開きのため、どうしたってドアノブに触れなければならない。そして毎回、ドアの前で立ち尽くすわたしがいる。

(誰か来ないかな・・・)

赤坂の一等地のビルの入り口で、キョロキョロと辺りを見渡す大きなリュックを背負った女がいれば、それは怪しい。ましてや我がジムは弁護士事務所と同居しているわけで、彼らのクライアントが訪れることもある。

 

しばらく待つが誰も現れない。この関門さえ突破できれば、あとは自動ドアのため安全だというのに、こんな時に限ってこのビルを訪れる人間が誰一人として現れないとは。

だがこれ以上遅刻のできないわたしは、そろそろ覚悟を決めなければならない。そして、

 

こんな一握りの金属に脅かされる人生など、まっぴらだ!

 

意を決したわたしは、勢いよくドアノブを握りしめた。

バチッ!!!

案の定、わたしの挑戦状を見事に跳ね返したドアノブから、強力な静電気を見舞われた。

(クソッ!!!)

全戦全敗の記録更新だ。そんなわたしと金属との命がけのバトルは、冬を迎えるこれからが本番となる。

 

 

日本の乾燥というものがいかに生ぬるいものか、そして日本という国がいかに恵まれた国かを再認識させられたのは、アメリカ西海岸に位置する観光都市・ラスベガスを訪れたときだった。

ラスベガスといえば巨大カジノに歓楽街、ナイトライフの充実したアメリカ屈指の観光地。空港の到着ロビーでは人ならぬスロットマシーンがお出迎え。時間つぶしにコインを突っ込む搭乗客の姿は、一種の風物詩といえる。

 

そんなカラフルで眠らない街、ラスベガス。その真の恐ろしさは「乾燥」にある。ネバダ州のほとんどは砂漠気候と亜乾燥気候帯のため、真夏は50度近い殺人的な暑さとなり、道路を横切ろうとするミミズは確実に死亡する。

そして当然ながら、人間の体内の水分も奪われていく。今の時期、最高気温は25℃前後で汗をかくほどの暑さではないが、知らぬ間に着々と干からびていくのだ。

 

ラスベガスに到着した日の夜、寝ているとスネがかゆくなってきた。ポリポリ掻いていると、太もももかゆくなってくる。そしてかゆみは徐々に上昇し、尻、腹、背中、腕とほぼ全身がかゆくなった。決してダニとか虫とかそういう痒さではない。肌が乾燥したときに襲ってくるアレだ。

「かゆくても掻いちゃダメ」

と人は言うが、そんな他人事は他人だから言えるのだ。深夜の眠りを妨げるこのかゆみ、掻かずにいられようか!

 

スネを掻くうちに腹がかゆくなる。腹を掻くと太ももにかゆみが移る。そんなこんなで尽きることのない、無限かゆみ地獄にのたうち回ったのだった。

 

――翌朝。

私の手足は血だらけになっていた。シーツにも血痕が付着し、皮膚には生々しい傷跡とかさぶたとが入り混じる。

ラスベガスに住む人々は一体、どうやって水分を保っているのだろうか。同じ人間ならば、さすがに乾燥するだろうしかゆくもなるはず。

 

とその時、よくよく考えるとシャンプーや石鹸と一緒に、モイスチャークリームが置いてあったことを思いだす。すぐさまバスルームへ走り、チューブのフタをもぎとるとクリームをスネへと絞り垂らした。

(保湿クリームでも塗らなければ、生傷が絶えない毎日を送ることになる)

アンチエイジングの専門家に言わせると、保湿クリームには皮膚のバリア(油分)を壊す成分が入っているのだそう。そのバリアを破壊することで保湿成分を体内に送り込むわけで、たしかに理にかなっている。

しかし長年バリアを壊し続けると、人間自らがバリアを作る能力が狂い、保湿クリームなしでは潤いを保てない体となるらしい。

 

よって、なるべくならクリームは使わずに軟膏を塗るほうがいいと言われた。しかし軟膏は、服もズボンもベタベタになるので実用的ではない。だからこそクリームが重宝がられるのだ。

 

いやいや、今は議論などする余裕はない。全身血だらけなのだから!

 

そして極めつけは、フロントのお姉ちゃんに書類のプリントアウトを頼んだ時だった。彼女の個人アドレスに書類をメールしたらプリントアウトする、と親切に申し出てくれたのだ。

(ありがたいことだ。ここは全力の笑みでThak youを言おう)

そしてわたしは、渡米後初となる全力の笑顔でお礼を言った、その瞬間――。

 

パリッ

 

不気味な亀裂音がわたしの唇から弾き出された。生臭い鉄分のニオイもする。――これは間違いなく、血が出ている。

微笑みかけたお姉ちゃんの顔が瞬時に硬直し、素早くティッシュを探し始めた。

 

上唇と下唇を左右に動かすと、ガチガチに硬くなったスルメイカのような、唇の死骸の存在を確認。きっとこの辺りから流血しているのだろう――。

 

たった一日でここまで全身の水分を奪い去るとは、砂漠ならではの恐ろしさといえる。それに比べて日本は幸せだ、笑って流血することなどほぼないわけで。さらに滞在初日でこんな目にあうことなど、まずないのだから。

 

サムネイル by 希鳳

 

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