エスカレーター・アサシン

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見えない敵がいる、という表現を聞いたことがある。

しかしその「敵」というのは人間であったり、直接的には人間ではないが存在として人間が関わっていたりするわけで、命も感情も持たない「鋼のマシーン」が敵になりうることなど、想定していない。

 

無論、SFの世界ならばありえる。だが現実社会において、まさかの敵が鋼鉄の機械だったとは、攻撃された自分自身が驚きである。

 

わたしは今日、正に「見えない敵」に襲われたのだ。

 

 

帰宅を急ぐサラリーマンというよりは、乗り換えのためにトボトボ歩く乗客が大半と思われる、地下鉄飯田橋駅。

ただでさえ遅刻をしているわたしは、時間短縮を図るべくエスカレーターを歩いて降りようとした。

 

「エスカレーターを歩かないでください」

「エスカレーターは止まって乗りましょう」

 

わかっている。言われなくても耳にタコができるくらい、そのセリフは聞いたことがあるしその通りだと思う。

 

しかし、細心の注意を払ってゆっくりと歩く分には、他の利用客の邪魔にもならないし、危険な行為とまでは言えない。

さらに、このエスカレーターの先頭はわたしであり、目の前には人っ子一人いない。これはさすがに、歩いても大丈夫だろう――。

 

そう考えたわたしは、ゆっくりと左足を前に出した。そして静かに一歩を踏み下ろした瞬間、まるで罠に掛かった野生動物が憑依したかのような、鋭い痛みに襲われた。

(しまった・・・これは膝をやったぞ)

半月板の痛みだ。しかも過去最大の痛みである。

 

この瞬間、今日までの一か月間が走馬灯のように脳内を駆け巡った。

 

今から一か月前、わたしは腰を痛めた。床に置いたペットボトルが取れないほどの激痛に見舞われ、歩く姿は老婆そのものだった。挙句の果てには「右の骨盤が外れている」と告げられた。

(・・・骨盤が外れる?)

あまり聞き慣れない言葉に唖然としていたわたしに、先生はこう言った。

「過去に120キロの力士が、同じように骨盤が外れて治療に来たのを思い出したよ」

力士の次がわたしとは、嬉しいやら悲しいやら。とにかく、施術と同時に地道なトレーニングを繰り返すことで、徐々に腰の痛みや可動域が戻ってきた。

 

そして昨日。試合前最後となる施術で、なんと、腰の状態が完全に戻ったのだ。

毎日、暇があれば取り組んできたストレッチでも、どうしても届かない距離があった。ところが、その引っ掛かりをパスンと切り開かれたかのように、わたしの腰は柔軟性を取り戻したのだ。

(やった、間に合った!!)

わたしはその場で小躍りして喜んだ。

 

そして今日。なぜに膝を狙われなければならなかったのか。

そう、先に触れたとおり、数日後には試合が控えている。ましてや明日、大荷物を引っさげて飛行機に乗らなければならないというのに、左足が役に立たないのだから笑えない。

 

痛む膝を押さえながら、エスカレーターに運ばれてホーム階へとたどり着いたわたし。そして再び左足で地面を踏み切るが、激痛で進めない。

(・・そうか。ヒットマンは、必ずしも人間ではないのか)

物言わぬ機械がヒットマンになりうるということを、まさに身をもって知ったのであった。

 

とにかく、エスカレーターを歩いてはならない。上りならばまだしも、下りはダメだ。

そもそもエスカレーターは歩くように設計されていない。だからこそ、一つ一つのステップにかなりの段差があるのだ。

その大きなステップを下るとなれば、やはり膝に負担がくるもの。ただでさえ痛めている膝ならば、あえて危険にさらすような真似をするべきではない。

 

繰り返しになるが、急いでいようがなんだろうが、エスカレーターはじっと止まって運ばれなければならない。

それでも急ぐ場合は階段を使えばいい。人間が上り下りするのにちょうどいい高さで設計された階段を、己の足で踏みしめながら進めばいいのだ。

 

それなのに、自動で運んでくれる乗り物を利用しつつ、さらに加速するために歩こうなどというマナー違反を犯せば、わたしのように半月板を持っていかれるのである。

考えればわかる、当たり前の代償だったのだ。

 

(あぁ、よりによって今日やっちまうとは、なんたる不運よ・・・)

 

さすがに気持ちが萎える。だがその半分は別の後悔だった。それは、なぜ練習中ではなかったのかということだ。

「エスカレーターを歩いて降りようとしたら、膝を傷めました」

こんな恥ずかしい理由があるだろうか。せめて、「激しい練習を繰り返した結果、名誉の負傷として膝を傷めました」のほうが、どれほど格好がつくことか。

 

(くそっ、せめて練習中の怪我であってほしかった・・・)

 

イライラが消えないわけだが、起きてしまったものは仕方がない。膝を伸ばさないように軽くつま先立ちをしながら、わたしはゆっくりと歩き続けるのであった。

 

サムネイル by 希鳳

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