有名な俳優に頼まれてお使いに行った話

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スポーツ新聞社で働いていたとき、わたしはよく「お使い」に行かされた。コンビニやカフェは日常茶飯事、夕飯や夜食を買いに遠出させられることもあった。

 

中でも、わたしにしか務まらないお使いがある。それは競輪の車券を買う仕事だ。内勤記者たちの儚い希望を背負い、新橋駅前にある場外車券場「ラ・ピスタ新橋」へと向かう、重要な任務だった。

 

ラ・ピスタ新橋は会員制の場外車券場。会員であるわたしは、会員ではない記者たちから現金を預かり、すでに塗りつぶされたマークシートを握りしめ新橋へと送り出される。

今思えば記者たちのデスクには、ラ・ピスタのマークシートが山のように備え付けてあった。あれもわたしが大量に持ち帰ってきたものだ。

 

世間一般の認識として、「デスクに山盛りの競輪のマークシート」が公認の企業や業種は稀だろう。だがここは競輪の予想や取材が本業ゆえ、マークシートが散乱しているほうが仕事熱心といえる。

当時からすでにインターネットでの購入がメインだったが、わたしの周りで勝てる記者はほぼおらず、みんな口座は空っぽ。

しかも競輪のみならずJRA(中央競馬)、地方競馬、ボートレース、オートレースと、ありとあらゆる公営競技に手を出すため、口座が空になるのに時間はかからない。

 

そこで頼みの綱となるのがナイター競輪であり、わたしという足軽の存在である。

 

あれは一種の中毒だ。とにかく車券を買わなければ気が済まない、手が震える、イライラする。よく言えば職業病、正確にはギャンブル依存症。

だがそんな人生もアリだろうーー。

 

 

ある日のお使いのこと。某競馬記者に呼ばれ、ぼそぼそと耳打ちされる。

「ちょっと靴底を直してもらいたいんだ」

見ると革靴の底がすり減っている。ラ・ピスタのすぐそばにある靴修理屋ですぐに直せるとのこと。まぁついでだからいいですよ、と現金と革靴を抱えて新橋へと向かった。

 

先に靴を修理屋へ預けてから車券を買い、全員見事に外れたのを確認してから靴を受け取りに戻った。

「できましたぁ?」

ご高齢の店主に声をかける。

「おぉ、もう少しで終わりますよ。しかしこの靴の持ち主は有名人ですな」

 

ーー有名人?

たしかに靴主は競馬記者の中ではある意味有名だ。しかし、店主が思うような有名人とは違う。

遠慮がちにわたしは、

「んー、どうでしょう。そこまで有名ではないかと」

と答えると、店主は目を輝かせながらこう返してきた。

「芸能人、あるいは舞台俳優さんでしょうな」

 

ーーわたしは絶句した。

この店主は靴修理キャリアうん十年を誇る名手だろう。爪の中まで黒く染みついた汚れが物語っている。しかし、思いっきり勘違いしている。

 

「私くらいになるとね、靴を見ればわかるんですよ。その人が」

その瞬間、吹き出しそうになるのを必死にこらえた。

ーーいやダメだ、ここで笑ったら店主に失礼だ。

 

「靴はその人を表すんだよね。この人は高貴な家柄の人だ。多分テレビにも出ている有名な俳優さんじゃないかな」

ーーた、たしかに靴主は、土曜深夜の競馬番組に出演したことがある。

 

「ホラ、革が喜んでる。立派な人の足を包み込むことができて」

頼むからそれ以上言葉を発しないでくれ。わたしは嘘をつきたくない。今のところうんともすんとも答えていないわけで、まだ嘘はついていないーー。

 

そんな「立派な人」のお使いで車券を買い、靴底の修理に来たわたしは、なんとも微妙な気持ちになった。

 

ーー確かに、わたしが知らないだけで靴主は俳優なのかもしれない。さらに靴主が高貴な家柄かどうかなど、わたしには知る由もない。そして少なくとも、いま目の前で靴底を直している店主の「夢」を打ち砕く必要などまったくない。店主は立派な俳優の革靴を修理していることに酔いしれている。そして店主のキャリアからしても「そう」でなければならない。ここで事実を伝えることで店主に恥をかかせてはならない。

 

「はい。おっしゃる通り、有名な舞台俳優です」

 

わたしは堂々と嘘をついた。いや、嘘とは言い切れない。人は誰でも与えられた職業という「役」をこなす俳優なのだ。靴主だって家に返れば父であり夫でありペットの飼い主である。

そう、人生という舞台で主役を演じる俳優なのだ。

 

ーー帰り道、どうも腑に落ちないわたしがいた。

 

 

Illustrated by 希鳳

 

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