金曜日の夜かつハロウィンだからなのか、それとも単にこのエリアがインバウンド客に喰い荒らされているからなのかは分からないが、池袋駅北口はうんざりするほどの人間でごった返していた。
折りたたみ傘では濡れてしまうほどの強い雨により、駅構内へと繋がる階段や床はツルツルにコーティングされている——頼むから、背後から落ちてくるなよ。
両手にキャリーバッグを抱えたアジア系観光客らを追い越したわたしは、彼女たちが足を滑らせてわたしに追突することだけを恐れていた。あんなデカい荷物ごとぶつかられたのでは、さすがに耐えきれずわたしも巻き添えをくらうだろう。それだけは勘弁願いたい・・。
そんなことを思いながらも、いよいよ有楽町線の改札付近へたどり着いたわたしは、脇に抱えていたトートバッグへ手を突っ込んだ。
(な、ない・・・スマホがない!!!)
コンビニで買った食糧や飲み物をかき分けながら、いつもの”あの手触り”を求めるわたし。必死になってバッグの底まで手を伸ばすも、あのサイズあの硬さそしてあのキーホルダーの感触が指先に伝わることはなかった——あぁ、スマホをなくしたんだ。
普段はイヤフォンで音楽を聴きながら歩いているので、スマホと離れたならばBluetoothが切断されることで置き忘れに気づくはず。だが今日に限って、どしゃ降りの雨も相まったせいで周囲の音に警戒するべく、ある種の本能が働いたのだろう。そのせいでイヤフォンを付けていなかったのだ。
そして最後にスマホと接した記憶は——コンビニのセルフレジで会計をした後、商品をバッグに詰める際に、電子レンジの上へ置いたところで終わっている。
(間違いない、あのコンビニで置き忘れたんだ)
コンビニを出てから10分以上が経過している。その間、どれほどの客があのセルフレジを使っただろうか。
そもそも、雨のせいで多くの人間がコンビニ内でたむろしていたし、晩飯時であることからもレンジを使う機会は増えるはず。そうなると、わたしのスマホを見つけて持ち帰る者がいてもおかしくない。
なにより、アレには大切なチャームが付いている。せめてそれだけでも返してもらえないだろうか——。
財布を盗まれた者がよく口にするセリフ「現金はいらないから、大切な思い出がつまっている財布だけは返してほしい」の意味が、分かるような気がした。
たしかに金品を奪われるのは痛いが、それよりなにより大切なあのチャームだけは返してほしい・・そう願ってしまったわけで。
こうしてわたしは、迫りくる通行人らと傘をぶつけ合いながらせっせとコンビニへと戻っていった。
人種や民族性で差別をするわけではないが、日本の文化や倫理観を理解できない外国人にとって、「遺失物は発見者の物」という認識であってもおかしくはない。わざわざ他人の落とし物をどこかへ届けてあげる義理などないわけで、だったら自分のものにしてしまえばいい——なんせiPhoneは、高値で売れるんだから。
ならば百歩譲ってスマホは諦めよう。非常に困ったことになるが、それでも不注意で置き忘れたわたしに非がある。だが、あのチャームだけは返してもらえないだろうか・・・。
わたしの取り柄は「あきらめの良さ」である。ダメだと分かった時点ですぐに、次なる最善手へ全身全霊を注ぐことにしている。当たり前だが、割れた皿を元に戻すことより、その代わりに何をどうすればいいのかを考えるほうが、建設的であり健全であり意味のあることだからだ。
だからこそ、スマホがこの手に戻ることはあきらめよう。ただ、あのチャームだけは——。
どことなく考えがまとまりモヤモヤが吹っ切れたわたしは、件のコンビニへと到着した。そして、セルフレジへと直行し我がスマホを探した——あるはずもない。
そんなわたしの脳裏を、山崎まさよしの「One more time, One more chance」がよぎる。あぁ、もうダメなのか・・。
いつでも捜しているよ
どっかに君の姿を
向かいのホーム
路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに
心の中で口ずさみながら、わたしは店員に尋ねてみた。これが外国人の店員だったら、話も通じすに終わるんだろうな——。
「あ、カピバラちゃんのですか?」
2人の日本人店員が目を輝かせながら、わたしのスマホを・・いや、スマホに付いているカピバラのチャームについて言及してくれたのだ。
そう、それです!カピバラのスマホ!!
*
カザフスタンの友人からもらったカピバラのキーホルダーは、きっと天照大神(あまてらすおおみかみ)や大天使ミカエルくらい守護のチカラを持っているのだろう。
そして何より、カピバラであることが人々の心を引き付けたのだ。心優しい店員は「よかったねー、無事に戻れて」と、スマホではなくカピバラ(とはいえ、ラバー製の単なるチャームなのだが・・)の無事を喜んでいたわけで。
*
「日本もまだまだ捨てたもんじゃない」ということと、「カピバラが偉大な存在である」ということが確認できた、どしゃ降りのハロウィンの出来事であった。




















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