ーーピンポーン。
夜9時すぎに玄関のチャイムが鳴った。モニターを覗くと一瞬、事態が飲み込めず呆然となる。
画面いっぱいに広がるは、黄色いヘルメットに大きく貼られた「安全第一」と「緑十字」。
ーーこんな夜分に現場作業員が何の用事だ?いまさら火災報知器の点検じゃあるまいし。
しばらく黙って様子をうかがうと、ヘルメットが天井を向くのに合わせて、日に焼けた男性の顔が現れた。
驚くことに、御歳80歳前後と思われる老人なのだ。
「あ、ウーバーイーツですぅ」
なんと。先ほどわたしが注文した料理を届けに、このヘルメットの老人がやってきたのだ。
すぐさま開錠ボタンを押す。急に開いたエントランスに戸惑いながらも、老人は深々と頭を下げモニターから消えた。
ーー今どきは高齢者でも配達員をやるのか。
そういえば先日、ポスティングのバイトを老婆がしていたことを考えると、老人がウーバーイーツで働いても不思議はない。それが良い悪いではないく、時代が変わってきた証拠だ。
しばらくして部屋のチャイムが鳴る。ドアを開けると、相変わらず黄色のヘルメットを目深にかぶり、平身低頭、ニコニコと白い歯を見せる老人が立っていた。
「お待たせしましたぁ、これ、熱いんで気をつけてくださいね」
腰から体を折るようにして、恭(うやうや)しく料理を手渡す。その袋がわたしの手に渡ろうとした瞬間、
「あ、重いんで気をつけて」
と、さらに親切に注意喚起をしてくれた。
本日注文した料理は雑炊。なんと「一つ買うともう一つ付いてくる」というお得なキャンペーン中だったため、結果として二つの雑炊が届けられた。
大きな容器にたっぷり入ったきのこ雑炊が、ポリ袋に二段に重ねて積まれている。袋の口は固くしばってあり、指で持てる部分はほとんどない。よって、容器の底を手で支えながら、ポリ袋の上部をつまむ形で運ぶことになる。
たしかに、底を支える手のひらに雑炊の熱さを感じる。
ーーあのじいさん、頑張って届けてくれたんだな。
工事現場のヘルメットをかぶっていたことと、日に焼けて小麦色をしたシワシワの手から想像するに、日中は工事現場で車両誘導か何かをしているのだろう。
それが終わった夕方過ぎから、ダブルワークとしてウーバーイーツ配達員をしているのではなかろうか。
年齢的にも体力仕事はきついはず。それでもこうして夜遅くまで働く姿に、感謝と敬意を表したくなった。
雑炊を食べる前に、わたしは配達してくれた老人へチップを送った。
たとえば雨の日や夜遅くに配達してもらった場合、5%のチップを払うようにしている。だが今回は、かなり奮発して20%のチップを支払った。
これからも元気に配達を続けてほしいーー。そんな願いを込めて。
*
テーブルに雑炊の袋を置いた。するといきなり崩れ落ちそうになる。
慌てて袋の口をつまんで持ち上げ、再度テーブルに置くが、どうしても上の雑炊が斜めに倒れてしまう。
袋を持ち上げまじまじと観察すると、なんと下の雑炊の容器が変形しており、そのせいで水平を保てないことがわかった。
実際に袋から取り出して容器を見ると、どこかにぶつけたかのような大きな凹みを発見。
さらに最悪なのは、凹みのせいで雑炊が押し出され、フタのすき間から外へとこぼれ出ているではないか。そのため、容器も袋の中も雑炊まみれになっている。
ーーだから熱かったのか。
袋の底を手で触った時に感じた「熱さ」の正体は、容器から伝わる出来立ての温かさではなく、容器から漏れ出た汁の熱さだったのだ。
いや待てよ。あの老人、親切に「熱いから気をつけて」「重いから気をつけて」と繰り返したが、これを知っててやったのか?
いやいや、そんなはずはない。もし知っていたら、きっと一言告げたはず。中身がこぼれてしまったようで、汁が熱いので気をつけて、と。
こぼれたことを知っていた上で、あたかも親切に「気をつけて」などと言えるだろうか。
わたしは、とても策士には見えない老人の笑顔を思い浮かべる。
ーー違う。彼はこのことに気づいていない。
人を疑うなど最低のこと。一瞬でも老人を疑った自分を恥じた。そして早速、容器が凹んでいるほうの雑炊へと手を伸ばす。
スプーンですくいながら黙々と食べるうちに、容器の底が見え隠れし出した。内側に凹んでいる部分をスプーンで突きながら、容器の形を整えてみる。
そんなことを繰り返すうちに、わたしは一つの「事実」にたどり着いた。
この容器、一部分をぶつけて凹ませたと思っていたが、違う。全体的に「一段」凹んでいるのだ。
たとえるならば、蛇腹式に折りたためるシリコンボウルのような感じーー。
ここで全ての謎がつながった。
なぜ上段の容器のフタに雑炊が飛び散っていたのか。そしてなぜ下段の容器が蛇腹のように一段凹んでいたのか。事実はこうだ。
老人が配達バッグから雑炊を取り上げようとした時、あまりの重さと袋のつまみにくさから、思わず雑炊を落とした。
垂直落下した雑炊は、そのまま蛇腹のように内側へ凹んだ。
落下の衝撃で上段の容器のフタへも雑炊が飛び散った。
老人は慌てて袋の中を覗くも、とくに変化は見られないため安心して雑炊を運んだ。
手のひらに感じる「熱さ」すらも疑わずに。
ーー間違いない。どう贔屓目に見ても間違いない。こんなにも辻褄のあう推測があるだろうか!
あの容器の凹みかたは真っすぐ落としたもので、店側のミスとは思えない。もしも店内で落としたのならば、必ずや交換するはず。
くそっ、くやしい!!
すぐさまチップを取り消そうとするも、操作方法が分からない。
かといってクレームするほどの騒ぎでもない。ただ単にチップを返してもらいたい、というだけのことだから。
あぁ、せめて5%にしとけばよかったーー。
*
そんなこんなで、今夜の雑炊は悔し涙の隠し味が効いていた。
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