ラウンジ・ジハード

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私は極めて慎重に歩を進めた。少しでも間違おうものなら、両手の指に引っ掛けたコーヒーを床にぶちまけてしまうからだ。

 

 

ここは高級ホテルのラウンジ。ここぞとばかりに私は、ホットコーヒーとカプチーノをカップになみなみと注ぎ、カリカリのジャイアントコーンをボウル山盛りに積み、お口直しのプチケーキやマカロンを平皿にギュウギュウ詰めに載せた。

 

両手で持ちきれない状況のため、周囲をキョロキョロするもお盆らしきものが見当たらない。

(こういうシャレたラウンジを使う奴らは、飲み物も食べ物も上品ぶって少しずつ運ぶのが、お決まりとでもいうのか?)

二回に分けて運べば問題なく済む話だが、多忙な私にとってはその往復すらも時間の無駄である。何とかして一度で済ませたい。

 

ちょうど近くにあったガラスの大皿に、コーヒーカップを二つ乗せてお盆代わりにしてみる。だが若干、カップの高台(器の底辺にある出っ張り)が皿の傾斜にかかってしまい、水平を保てない。

皿の中心へ傾く形でカップ同士が支え合っているのだが、振動によってはバランスを崩しかねない。

 

高級ラウンジでコーヒーをぶちまけようものなら、利用客やスタッフらの冷たい視線に晒されること間違いなし。

少なくとも私は「立派な顧客」という前提でここに立っている。そんな高貴な人物が、コーヒーを大皿で無理矢理運ぼうとするなど、あってはならぬ愚行。

 

そこで私は考えを改めた。皿をお盆代わりにするからいけないのだ。両手を使って、なんとかコーヒー二杯と平皿とボウルを、一度で運ぶ方法を編み出せばいいのだ。

 

しかし最悪なことに、上品なコーヒーカップの持ち手部分は、細くて持ちにくい上に極端な弧を描いている。そのため、指に引っ掛けるとツルンと回ってしまうのだ。

具体的には、人さし指を持ち手に引っ掛けて、中指の腹と薬指の指先でカップの側面を支える形でなければ、水平を維持できない。

これを両手でやりつつ、残された親指と小指を使って、ジャイアントコーンのボウルとその上に載せたケーキの平皿を抑える。そう、全ての指を使わなければ敢行できない、かなりの苦戦を強いられるのだ。

 

負け惜しみではないが、もしもこれがマグカップならば上手くいくはず。マグカップは重量があるため、持ち手が太くてカップも真っすぐにできており、安定感に長けているからだ。

しかし上品なコーヒーカップというものは、持ち手は細いツルのような形をしており、胴体もふっくら丸みを帯びているため、片手で運ぶ際に安定させるのが難しい。

 

そこで私は、ひそかに両手でコーヒーカップを支える練習を繰り返した。そしていよいよボウルの上に平皿を置き、それを親指と小指で抑えながら、空いている三本の指でコーヒーカップを支えると、そっとテーブルから持ち上げた。

(どうだ?このまま行けるか?)

わずかに弱気が上回った私は、一旦すべての持ち物をテーブルに下ろした。

 

ここから自分の席まではおよそ30メートル。途中でコンシェルジュブースを通過し、さらに利用客らを縫いながら進まなければならない。

無論、途中で立ち止まることはできない。よって、手持ちの食器を下ろすとすれば、自席か床しかないわけだ。

 

これは想像以上にプレッシャーを感じる道のりである。誰が見ても無謀な挑戦であり、ましてやラウンジ利用者としてあるまじき行為ともいえる。

一言スタッフに声を掛けて、お盆をもらうなり運搬の補助を頼むなりすればいいだけのこと。だが私には、なぜだかわからないが、この無謀な行為に挑戦しなければならない「使命感」のようなものがあった。

 

(何がなんでも達成する!そうだ、やってできないことなどない!)

 

恐怖心を払いのけ、自らを奮い立たせることに成功した私は、おもむろにコーヒーカップと皿を持ち上げた。

――よし、今度は行ける!

 

一歩、また一歩と慎重に足を出す。つま先立ちで歩くかのような感覚で、コーヒーの水面に注視しながら、少しずつ前進を続ける。

(イイ感じだ。これは間違いなく自席までたどり着ける)

何人たりとも私の進行を妨げてはならぬ。もしもそのようなことをする者がいたら、無意識に噛みつくことだろう。

 

というか、むしろワクワクしてきた。なんだろう、この高まる気持ちは――。

人間というものは、常に挑戦し続ける生き物なのかもしれない。小さなことでいい、未知への何かに挑むことこそが、自身の成長につながるのかもしれない。

そしていま、私は未知の領域へ足を踏み入れたのだ。確実に一歩ずつ、目的達成へと近づいているのだ。あぁ、なんという恍惚の境地!

 

とその時、私の偉業達成を阻止する敵が現れた。ラウンジの責任者だ。そいつは私に気づくと、すぐさま無言の合図を部下に送った。

私はその瞬間を見ていないが、覚醒した脳内にハッキリとその一部始終が映し出された。そしてついに、私の目の前に強敵が滑り込んできたのだ!

 

「お、お客様!お持ちします!」

 

小生意気な顔をした女が、お盆を持って進路を塞ぐ。後ずさりしようと振り向くと、そこには強敵・ラウンジ責任者が立ちはだかっている。

 

(あぁ、万事休す・・・)

 

偉業を達成するには、様々な苦労や困難を乗り越えなければならない。私もまだまだ、修行が足りないということなのだろう。

 

コーヒーとジャイアントコーンのボウルを奪われた私は、ガックリ肩を落としながらトボトボと自席へ戻った。

 

サムネイル by 希鳳

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