現代の医学を以てしても治せない病気や怪我というものは、残念ながら存在する。
その一つに、網膜剥離がある。
読んで字のごとく、網膜が剥離する(はがれる)ことだ。
巷で安易に、
「網膜剥離で失明することはありません」
などと宣伝している眼科があるが、それは嘘だ。
網膜の剥離した場所が黄斑部であれば、失明する可能性が高い。
剥がれる場所によって、またその人の網膜の状態によって、視力に影響を及ぼすかどうかが決まる。
ましてや上部に裂孔(穴)がある場合、重力も相まって短時間でベリベリと剥がれてしまう。
網膜は例えるならばミルフィーユ。
薄いパイ生地が何層も重なってできているイメージだが、近視が強い人はその層が非常に薄かったりする。
そのため、ちょっとした衝撃でもミルフィーユに穴が空く。
網膜剥離の可能性が高い競技として「打撃系の格闘技」が挙げられる。
そして剥離した選手が手術の末、復帰できたり引退したりと選手生命を左右することとなる。
その人の網膜の厚みにもよるが、薄くて貧相な網膜であれば格闘技は諦めるのが賢明。
フカフカの分厚いミルフィーユであれば、予断は許さないが格闘技を続けることは可能だろう。
あくまで、その人の持つ網膜の状態によるということを忘れてはいけない。
「●●さんは××で手術して治ったから、もう大丈夫」
という言葉は、ぜひとも無視してもらいたい。
ヘビースモーカーで肺ガンにならない人もいれば、タバコなんて吸ったこともないのに肺ガンで死ぬ人もいる。
それと同じ理屈だからだ。
同じ衝撃でも、貧相な網膜ならば一発で裂孔または剥離する。
ゴージャスな網膜ならばその時点では何も起きないかもしれない。
たったそれだけの、かなり大きな違い。
ならば目や頭部に衝撃のあるスポーツを辞め、おとなしく安全に生きていれば網膜は一生安泰なのか、といえばそれも違う。
すべては運であり、ある種その人の宿命なのだ。
その上で、
自分の網膜を知った上で覚悟を決めるしかない。
今のご時世、目が見えなければ不便で不自由を強いられるであろうことは想像に難くない。
それをあえて、増悪因子または危険因子となる行為を続けることが、果たして正しいのかどうか。
だが、
一度きりの人生。
後悔するなら大いに後悔すればいい。
そもそも覚悟を決めた時点で、後悔という言葉は消滅している。
そして覚悟が決まるまでは、大いに悩めばいい。
悩み続けることすらも、いずれ人生の一部を彩るのだから。
主治医は私にこう言った。
「私は保守的だから、危険なことはやめてほしいと思ってる。
でも、もしも何か起きた時には私がいるから。
私はあなたの主治医だから」
こんな眼科医と出会えたことに感謝しかない。
*
年の瀬、目の病気にご利益があることで有名な新井薬師へ立ち寄る。
なぜここが「目の薬師」と呼ばれるのか。
「江戸幕府二代将軍秀忠公の第5子・和子の方(後の東福門院)が、重篤な眼病を患い新井薬師を訪れる。そこで清水に触れ祈願をしたところ眼病が寛解した。東福門院和子に奇跡が起きたことから『目の薬師』と呼ばれるようになった。」
というのが由来だそう。
自分の目と冷静に正面から向き合うことができるこの場所は、私にとっても私の人生においても必要不可欠な地といえる。
私はいつ死んでもいい。
明日、目が覚めなくても構わない。
そういう覚悟で毎晩、目を閉じている。
*
新井薬師から車で帰宅途中の出来事。
背後から都バスが近づいてくる。
ゆっくりと私の前方へ割り込もうとする。
(車幅、1センチくらいしかないじゃん)
などと思うよりも先に、ガコッと鈍い音を立ててドアミラーが破壊された。
(そりゃそうだ、そんな近けりゃドアミラーも取れるわ)
バスの運転手は今年入社したばかりの新人ドライバー。
それまでは医療系の学校に通っていたのだそう。
なぜ医療系の仕事に就かず、都バスの運転手になったのか尋ねると、
「運転が好きなので!」
嬉々として答える。
(運転好きなら車幅くらい確認しようか)
加害者である新人ドライバーは格闘技も好きなのだそう。
そこで、たまたま始まったシバター(有名ユーチューバー兼プロレスラー)の試合をスマホで観戦させてあげる。
しばらくすると、警察に加えて彼の上司(東京都交通局の職員)らが現場に到着。
間髪入れずに私が、
「おまえさ、会社辞めんなよ。10年後、後輩に事故自慢するまで続けろよ」
「あとウチ、トライフォース赤坂だから。待ってるから」
と、ジムの勧誘を挟みながら説教をする。
新人はひたすらペコペコ頭を下げる。
警察と上司らは黙って立ち尽くす。
年末だろうが年始だろうが、事故は起きるし人生はつづく。
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