チャットボットとニンゲンとの珍道中

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庶民にとってAIが便利であるのは言うまでもない。だが、実際にニンゲンと会話をしながら進めることのメリットというのも、間違いなく存在する。それは、AI相手では叶わない「共感」のような——言い換えれば「傷を舐め合う同士」のような、微妙に心地よい感覚なのである。

 

 

とある顧問先で新たな勤怠管理システムを導入するにあたり、まず手始めに社長がいじってみることになった。

チュートリアルに沿ってあれこれ試すわけだが、操作方法についてはシステムに組み込まれているチャットボットへ質問する形で解決しなければならない。しかしながら、シナリオ型のチャットボットであるため、込み入った質問や聞き方が分からないものをヒットさせるには、こちらの聞き方にも正確性や具体性が求められる。

「んなことは分かってるんだよー」などとボヤキつつも、チャットボットの機嫌取りに苦戦する社長を横目に、わたしはわたしでChatGPTに対してこの勤怠管理システムの不明点を尋ねてみた。すると、商品の一部であるチャットボットよりも的確に、かつ、分かりやすい説明で解決まで導いてくれたではないか——オイオイ、そのチャットボットいらないじゃん!

 

とはいえ、これこそがAIの真骨頂。文脈を理解したり表記ゆれを許容したり、圧倒的に柔軟性のある回答が可能なのが「対話型AI」の特徴であり強みである。

対するチャットボットは、あらかじめ設定されたワードに引っかからなければ適切な回答を導き出せないため、質問する側の理解度や専門性が問われてしまうのだ。

 

そんなわけで、勤怠管理システムのチャットボット&社長vs生成AI&わたしという奇妙なタッグマッチが繰り広げられるのだが、ふと、ニンゲンである「わたし」というクッションが挟まっていたことに、少なからず意味があったのではないかと思い始めた。

チャットボットも生成AIも、いずれも質問に対する「正答」というゴールを与えてくれる存在ではあるが、ゴールまでの過程を楽しむことには付き合ってはくれない。「なんで出てこないんだぁ?」「じゃあ、こんな感じで聞いてみたら?」など、失敗の連続につまづきかけても、何くそ!とゴールへ近づく感覚——互いの現状把握と気持ちの共有とでもいおうか、そういった内面的な部分を分かち合うことができるのは、世界がどこまで進化してもニンゲン同士にしか実現できない感覚といえる。

そして、そんな支え合いのような他愛もないやり取りのほうが、無機質にチャットボットやAIと向かい合うよりも、当人の「やる気」を奮い立たせる原動力となる場合がある。

 

ヒトというのは不思議なもので、誰かの共感が得られると安心する性質がある。自分一人じゃないんだ・・という仲間意識によるものなのか、たとえ正解にたどり着けなくても、苦悩に立ち向かう過程で傷を舐め合える仲間がいると、いばらの道も楽しい遠足(?)になり得るのだ。

そして、文句を垂れたり試行錯誤を繰り返したりしながら、最終的に目的を達成できればラッキーだし、仮にゲームオーバーとなってしまっても、珍道中の苦労はいずれ笑い話となって花を咲かせることができる。きっと誰もが、「人生を振り返った際に笑えること」といったら、自身の失敗談を語り出すに違いない。要するに、失敗というのは”笑顔を内包する面白いイベント”なのである。

(正しくは、ゴールや成功を手にできればその「結果」こそが優位に働くが、失敗すれば結果を得られないわけで、そうなると「過程」しか語ることができない・・というのが本音なのかもしれないが)

 

だからこそ、わたしの職業がAIに駆逐されされないためには、社労士として正しいことだけを語ったり諭したりするのではなく、上手くいかない部分について分かち合い、解決の方向性を導き出すことのほうが、現実的に求められている要素なのではないかと思うのだ。

——そんなことを考えながら、今日ものらりくらりと珍道中を歩む、奇天烈な社労士と真面目な顧問先なのである。

 

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