喧嘩、いや大喧嘩をした。
いつぶりだろうか。
この歳になって誰かと喧嘩をするとは思ってもみなかったが。
時に唐突に、そして漸進的に喧嘩は勃発する。
*
記憶に残る喧嘩といえば10年前、思い出すだけでも心身が疲弊する厳しい戦いだった。
そもそも喧嘩というのは感情論の成れの果て。
議論では済まされない、妥協ではなく「分かり合えない」というなんともファジーな感情から発展する。
つまり喧嘩の相手は親密な関係にある。
ましてや無駄な摩擦や衝突を好まない、この私。
それが喧嘩になるということは、すでに相当なコンフリクトが生じている。
相互に微妙な軋轢が生まれ、それを修正できないまま隙間が広がり、いつしか取り返しのつかない巨大な穴が完成していた。
あのときの相手はたしか、
そうだ、あいつは弁護士だ。
彼は弁護士でB型、無味乾燥で冷酷な男という表現がしっくりくる。
ドライな口調で淡々とやり込める手法は尋問そのもの。
そして恐ろしいことに、彼の主張に一点の誤りもない。
ではなぜ我々が揉めるのか。
やはり感情だろう。
事実として正しいか否かではない。
思いやりだとか人情味だとか、いわゆる「不必要な感情」から生まれる軋轢。
しかしこの領域は、決して分かち合うことのない聖域でもあり、どれだけ時間をかけて議論を重ねようがマージは不可能。
それでも関係を断つことができない場合、喧嘩となる。
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私が何かを行動や言動で表すとき、まず相手の中へ入り込む。
その上で理解してもらえるであろう言葉や態度を選ぶ。
しかし相手がそのようなタイプではない場合、つまり自分の考えが強固なベースとなり議論が進行するタイプの場合、私のおもいやり的な配慮がおかしな方向へと導くことになる。
本来の姿としては、相手のやり方が正しい。
お互いに意見をぶつけ、調整し、結論付ける。
これが一番の近道であり誤解を生まない。
しかし人間たるもの、事実だけで動くわけでもない。
相手をおもいやり、傷つけないように慮(おもんぱか)った結果、それが裏目に出てコンフリクトが生じるわけで、何も事実だけがすべてではない。
そのような見えない過程も含めて、人間関係と呼ぶわけで。
一つ思うのは、私が一度でも相手と対面していれば、コンフリクトは生じないだろうということ。
ゴリラと揶揄される私にとって、フィジカル環境には絶対的な自信がある。
文字や声、画面からは伝わらない僅かな人間味を、対面することで漏らさずキャッチできる。
その「におい」こそが人間性であり本質だからだ。
たった一瞬でもリアルを踏んでいれば、私が相手を見誤ることはない。
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言葉を生業とする人間、つまり弁護士や物書きといった連中と喧嘩をするのは体によくない。
語弊を生むことなく事実を伝える能力に加え、相手を傷つける術を身につけているからだ。
「言葉が強い」
友人がそう表現したが、まさにそのとおり。
どの言葉が刺さるのか、どの言葉が効果的なのかを熟知しているがゆえ、必要以上のダメージを与えることができる。
「あーぁ、余計なこと言わなきゃいいのに」
他人事ならばこんな感じで苦笑しつつ相手を気の毒に思う。
だが当事者となると、そう、手が震えるだけでなく精神が崩壊したかのような笑みすら浮かぶ。
久々にそんなウェットな文言を目にした私は、怒りとも絶望ともとれる複雑な感情を抱くと同時に、得も言われぬ喜びを感じた。
こんなにも感情をかき乱す言葉や表現があるのかーー
*
過去を振り返ると私は「捨てられるはず」でスタートすることが多い。
新卒で入社した企業は、書類選考の時点で私のエントリーシートは不採用ボックスへ入れられていた。
そこへたまたま通りかかった理事長が、シートいっぱいにデカデカと描かれた麻雀牌を見るなり、
「面白いじゃないか」
笑いながら採用ボックスへ放り込んだ。
それだけの理由で、私の首の皮はつながった。
ーーあいつも同じこと言ってたな
大喧嘩の相手も似たようなことを言っていた。
私は本来、捨てられるはずだったのだと。
そんな哀れなクズに1ミリの情けをかけて、拾ってやったのだと。
黙れカス。
おまえが私を捨てることなど、絶対にできない。
*
翌朝、体重計に乗った私は驚く。
なんと体重が5キロ近く減っているではないか。
それほど壮絶で、壊滅的なダメージを食らう戦いを繰り広げたのだ。
大丈夫、私はまだまだ戦える。
Illustrated by 希鳳
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