わたしが精神的に幼稚なだけかもしれないが、この年になっても親からの注意喚起を素直に受け入れることができない。よく子どもが口にするセリフで、
「そんなこと言われなくてもわかってる!」
「今からやろうとしてたところなのに!」
という決まり文句があるが、これにはなんとも奇妙な作用がある。
蕎麦屋の出前のように、その場を取り繕うために吐く場合もあるが、本当に「今まさに取り掛かろうとしていたところ」へ、追い打ちをかけるように親から尻を叩かれると、その瞬間にすべてを放棄したくなるから不思議だ。
これが他のことならば、そうはなるまい。たとえば「そろそろお茶の時間にしようか」と思っていたところへ同じ提案が出た場合、それこそノリノリでカフェに向かうだろう。
異性への告白も同じだ。「じ、じつは前から・・・」「わ、わたしも・・・」と、同じことを考えていてくれてよかったと思えるわけだ。
このように、自分が希望することを相手も思っていてくれた場合は手放しで喜べるにもかかわらず、勉強やおつかいなど「面倒なこと」を親や身内から指摘されると、心底ムッとする。ましてや、重い腰をようやく持ち上げた途端に「早くやりなさい!」などと言われた日には、もう絶対にやらん!!と意固地になってしまうわけだ。
どうせやらなければならないことならば、自発的だろうが催促されてからだろうが結果は同じ。それなのになぜか、親に指摘された場合のみ「絶対に従うものか!」という強い反抗心に見舞われる仕組みは、いまだに謎である。
*
先日、母がわたしに向かってこう話しかけてきた。
「数百万円くらいの借金で、誰かを殺しちゃダメよねぇ」
当たり前というか、なにを今さらそんなくだらない話題を持ち出すのかと、わたしは怪訝に思った。
「中学校の先生が、借金が返せなくなって見ず知らずのお宅に侵入して、おうちの人と鉢合わせしたからって殺しちゃったんだって」
「子煩悩ですごくいい先生って評判だったらしいのよ。せっかく学校の先生になれたのに、ギャンブルで人生台無しにしちゃったわよね」
わたしはこの手の話が大嫌いだ。誰かの人生の「断片」をのぞき見して、それを他人があーだこーだと根拠のない妄想で話を膨らます、不毛で下品なゴシップネタ。
そもそもメディアが報道している内容の真偽も不明だし、本人が本当のことを話しているかどうかも分からない。にもかかわらず、余計なことに首を突っ込みたがる卑小な人間どもには、バカバカしすぎて反吐が出る。
そして何よりもわたしを激昂させたのは、その後の母の発言だった。
「もしも借金返済に困ったら、人を殺したりしないで相談してね。実家を売ってお金を作るくらい、なんてことないから・・・」
一般的には「なんていいお母さんだ!」「娘想いの素晴らしいお母さんだ!」となるのだろう。だがわたしにとっては、その発言こそがまったくもって余計なセリフであり、人を殺すということに対してこれっぽちも目線を下げて(合わせて)いない、完全なる他人事にしか聞こえなかった。
その発言が、わたしの心の底から得体の知れない怒りと憎悪を掘り起こしたのである。
ヒトがヒトを殺すとき、そのほとんどはまともな精神状態ではないだろう。とくに今のご時世、どんな些細な特徴や性格・性質であっても、すべてなんらかの病名がついてしまう。
そこまで医学が進歩したのは素晴らしいことだが、「病気(障害)だから仕方ない」で済ませられるほど、人間の倫理観や道徳心は廃れてしまったのだろうか?と、疑問符が拭えない気持ちもあるのだが。
とはいえ、ヒトを殺したその瞬間は「突発的」あるいは「衝動的」かもしれないが、そこへ至るまでの精神状態が異常であるのは間違いない。極限に追い込まれたことで、正常な判断ができなくなり、ヒトの道から外れた行動に走ってしまう――。
仮に、ヒトを殺す5分前に母親が言ったような「当然の忠告」を聞いたところで、その人が凶行に及ばないとは到底思えない。そんな正論が耳に残るほど「正常な心理状態」であれば、そもそも不法侵入や殺人といった、とんでもないハードルを超えようとは思わないからだ。
(母親にあんなことを言われなければ、殺人など犯さなかったのに・・・)
いつかわたしがこのように思い、深く後悔する日が来るのかもしれない。なぜなら、なにが凶行の引き金となるのか、また、人間の心理などいつどうやって転ぶのか、誰にも分からないものだから。
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