海外へ行くと、毎回、真剣に考えることがある。
とくに英語の通じない国へ行くと、より現実的に悩む。
「もし帰国できなかったら」
この人生を左右するであろう大問題について、渡航中ずっと思いを巡らせる。
5年前、フランスを訪れたときのこと。
当時、私はクレー射撃の選手だったので、海外出張時は射撃場を見つけては練習していた。
今回は、パリから電車で1時間ほど北東へ進んだところにある射撃場へ向かった。
この国は、公用語であるフランス語が分からなくても英語で乗り切れると思っていたが、それはパリ市内限定の話。
田舎へ行けば行くほど、英語がまったく通じない。
意思の疎通ができないことは、すなわち死を意味する。
到着した駅は無人駅、切符はゴミ箱へ投げ捨てる。
駅周辺にはタクシーはおろか人影すらない。
しばらく周辺をうろつくと、カーショップを発見。
「In English?」
怪訝そうな顔をされる。
あぁ、英語は通じないか。
ここからはグーグル翻訳での会話となる。
その結果、タクシーは呼べないことがわかった。
この地域の住人はタクシーなど使わないのだそう。
ーーモタモタしてたら射撃場にたどり着かないぞ
カーショップを出ると再び駅方向へ歩き出した。
そもそも人がいない。
車も通らないが人がいないのだ。
ウーバーなどもっての外。
5キロ圏内に1台もいないどころか、Wi-Fiの電波が怪しい。
私の脳裏に一抹の不安がよぎる。
ここからおよそ10キロ離れた射撃場へ、予定時間までに到着せねばならない。
何とかして車を確保する必要があるが、車どころか人すらいない。
そう、ここは見渡す限り金色の、広大な麦畑だった。
とりあえず駅に戻った私は、焦りながらも目を凝らして人気(ひとけ)を探す。
ーーあるはずもない
ところが、
30分ほど呆然としていると、なんと、遠くから1台のタクシーがやってきた。
こんな奇跡があるだろうか。
駅でじっとしていたことが幸いしたようだ。
飛び上がって手を振りタクシーを捕まえると、グーグルマップで行き先を示し出発した。
*
農地を延々と走り続けること15分、ドライバーが困った顔で振り向く。
スマホを渡し、フランス語で入力してもらうと、
「ここが目的地です」
いやいや、ここはライ麦畑のど真ん中でしょうよ。
慌てて私も入力。
「射撃場はどこですか?」
ドライバーは首をかしげ、おどけた表情を見せる。
ーー詰んだ
私たちは車から降り、外の空気を吸う。
見渡す限り金色の麦畑。
日本の田んぼに似ているが、稲よりピンと立った麦が風に合わせて美しく揺れる。
はるか向こうには風力発電の白い風車。
なんてのどかな田園風景だーー
言葉の通じない私たち、どちらからともなく道端に腰を下ろし、ぼんやりと麦穂をながめる。
不幸は続くものでWi-Fiは圏外、スマホの充電は20パーセントを切った。
もっと最悪なのは手持ちのキャッシュがほとんどないことだ。
クレジットカードでどうにかなる、と高をくくっていたが、このド田舎ではクレジットカードなどレターオープナー以外に使い道はない。
ーータクシー代を払ったらすっからかんだ
遠くからエンジン音が聞こえる。
右を向くと、麦を刈り込むトラクターが作業をしていた。
ーーあぁ、もしこのまま帰国できなければ、あのトラクターを運転して働こう。フォード車のトラクターなら運転できる
ーーあとはフランス語も覚えよう。この田舎で暮らすにはフランス語が必要だ。3年も住めば会話に困ることはないだろう
ーー油圧ショベルの操縦ならできるから、作業現場があれば働こう。指示さえ守れば会話はいらないだろう
言葉が通じないということは、仕事にも就けない。
仕事に就けなければお金を稼げないので食べ物に困る。
食べ物にありつけなければ、いずれ死ぬ。
私は、言葉が通じなくても作業はできる、ガテン系の仕事で生きて行こうと心に決めた。
幸運なことに重機の操縦はできる。
さらに肉体労働にも自信がある。
世界中で工事や整備の需要はあるため、働き口には困らないだろう。
そうだ、世界最強の職業は土木作業員だ。
*
さらに20分ほどぼんやりしていると、犬の散歩をする女性が現れた。
途方に暮れていたタクシードライバーは、ダッシュで彼女の元へ駆け寄る。
流暢なフランス語による会話がつづく。
女性があちらを指さす。
ドライバーはかぶっていたベレー帽を胸に当て、お辞儀。
ーーフランス人ぽいわ、ああいう仕草
私を手招きする彼の顔は生気に満ちていた。
どうやら射撃場の方向が分かったようだ。
私はトラクターの運転手にならずに済んだし、フランス語がペラペラになる日も来なかった。
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