「精進料理」という伝統文化と労働基準法

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久しぶりに訪れたこの店は、1950年(昭和25年)創業の老舗精進料理屋。「ミシュランガイド東京」発行以来、空くことなく星2つを獲得し続ける有名店だ。

 

実はこの店、わたしの顧問先でもあり、過去に労働基準監督署の調査を受けたことがある。

 

監督署の臨検(立ち入り調査)は必ずしも申告ではなく、任意に調査対象を選択することもある。これは建前かもしれないし、実際のところ監督官が本音を吐くとは限らない。

仮に労働者からの申告でも、それが「濡れ衣」や「腹いせ」の場合もあるため、臨検=違反を犯しているわけではない。

 

臨検当日、何ら違反はなく監督官も一安心の様子で調査が終わろうとした。だが一つ、相談のような指導のような内容について、監督官とわたしは口論となった。

 

監督官は、

「労働時間と自己研鑽(けんさん)の時間を明確に分けて管理してください」

と言う。わたしは、

「わかりました。しかし伝統を守ることと労働との線引きは難しいですよね」

と、答えとも反論ともとれる返事をした。

 

たとえば京都の舞妓・芸妓さん。彼女たちは労働者ではないとされる。これには賛否両論あるが、日本が誇る「舞妓」という伝統芸能を守るためには、メスを入れるべき分野ではないというのが本音だろう。

ちなみに彼女たちの身分と置屋との関係は「芸を身につける修行の場として置屋があり、置屋で芸事を教えている」ということらしい。

つまり、職場ではなく学校の位置づけ。

 

この精進料理屋も、創業以来の献立を守りつつ時代と共に進化する味を顧客へ届けている。そう、置屋と同じく伝統文化を継承する店なのだ。

そこには「労働」の一言では割り切れないフィールドが存在する。

 

「伝統食文化を守るための修行が、労働ですか?」

「使用者の指揮監督下で労働し、報酬を得るならば労働者となりますからね」

 

同じ人間が労働と修行を行う場合、その線引きは非常に難しい。口で言うのは簡単だが、「はい、ここからは修行です」と区切るのは、現実的には無理だろう。

そしてこの店で働く板場も仲居も、老舗のプライドと伝統を継承する責任を背負って職務に励んでいる。

 

かつて門番をしていた高齢の男性が、こう話してくれた。

「身寄りのない私を受け入れてくれた先代にはご恩しかない。ここに立って店を守ることが、私の生きがいなんです」

その彼に向かって、あなたは労働者だから法定労働時間を守ってくださいね、などと言おうものなら烈火のごとく怒るだろう。馬鹿にするなと。

 

伝統文化を守ること、受け継ぐこと。そこに付随する「労働」という行為ーー。

「修行」であれば許されて、「労働」であれば許されない線引きが、どこにあるのだろうか。

法律のさじ加減などで、絶やすことがあってはならない老舗の灯。そのためにもこの店は、従業員一丸となり温故知新を実践している。

“守るだけではいずれ滅びる。攻める姿勢が伝統を繋ぐ。“

 

そこへ、仲居歴13年の真野が着物の袖を抑えながら器を置いた。

 

「当店自慢の蕎麦です。この蕎麦が打てる者は現在2名しかおりません」

 

春雨をさらに細く薄くしたような、繊細で透き通ったチャコールグレーの麺。それでいてコシがあり蕎麦の風味も損なわれていない。細かく切り刻んだネギと和からしが、ちょうど良いスパイスとなっている。

 

「耳を澄ませていただくと、トン、トンと音が聞こえます。あれが蕎麦を切る音です」

 

ゆっくりと静かに響くのし板と包丁の音。

この空間をつくり出すまでに、どれほどの時間と年月と想いと、そして人生を費やしてきたのだろう。

それを、「あなたは労働者だから労基法に従わなければならない」とバッサリ切ることなど、到底できない。

 

彼らは労働者である前に、プロの職人であり、伝統を継承する担い手なのだから。

 

 

あの監督官も客として、この精進料理を目で、鼻で、舌で味わうといい。

 

仕事は「辛くて苦しいもの」だと決めつけているから、長時間労働を禁止するのだろう。

もしこれが「楽しくて幸せなこと」ならば、仕事を取り上げることが正義と言えるだろうか。しかも、労働者自らが率先して懇願することを、どうして拒否することができようか。

 

日本が誇る高度な精進料理。時代を超えていつまでも、日本の伝統「食」文化として輝き続けることを願う。

 

 

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