ノルマの老婆

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マンションの集合ポストに、不要なチラシが投函されることをものすごく嫌う。

車を所有していないのに「駐車場30,000円」とか、その日暮らしの人間に対して「マンション2.8千万円~」とか、ゴミ箱へスルーパス以外にどんな方法があるというのだ。

 

しかも、かつてそこにあった「チラシ専用ゴミ箱」が撤去されてしまったのだ。理由は、下劣な居住者がそこへマックの食べかすやペットボトルを捨て続けた結果、管理会社が激怒して撤去、という理不尽な話。本当に余計なことをしてくれる。同じマンションに住む人間として品格が疑われるから、すぐさま退去してもらいたい。

 

毎日何らかの不要なチラシが投函されることで、毎日不快な気分に陥ることを懸念し、そもそも投函されないように工夫をすればいいのでは、とひらめいた。それは、ポストの入り口にメッセージを貼ることだ。

「チラシお断り」

「チラシ投函厳禁」

「チラシ入れないで」

色々と並べてみるがどれも弱い。

実際に投函する人間はアルバイトで、機械的に投函作業をしているだろう。そんな「心ここにあらず」の状態で作業に特化する人間に、甘っちょろいメッセージを貼ったところでハッとなるはずもない。

 

そこでわたしは考えた。一言でインパクトのある、それでいて投函したくなくなるワードを。

「チラシ入れんじゃねぇ」

これならば簡潔で端的で小学生でも理解できる。ただ、これだと輩(やから)感があふれる気もする。もう少しオブラートに包んだ方が、他の居住者から警戒されないのではないか。

「チラシ入れんじゃねぇ!」

ーーよし、これなら大丈夫。

 

驚くべきことに、このシールを貼ってから本当にチラシの投函が減ったのだ。

もしかするとそもそもチラシ投函の事実がなかっただけかもしれない。だがある日、ウチのポスト以外の全部の口から、ベロを出した状態でチラシが垂れ下がっていた。見事に、ウチ以外全部。

ーーおぉ、大成功だ!

わたしのアイデアは見事的中、不要なチラシのイライラから解放された。

 

 

ある日の帰宅時、エントランスで若い女性と一緒になった。とりあえずの挨拶を交わし、ポストを開けて郵便物を取り出す。そして同じタイミングでエレベーターに乗った。

「あのポスト、お宅だったんですね。どんだけ尖った人がいはるんやろ、ってビクビクしてました」

苦笑いしながらそう話しかける女性。

「あぁそうだった?でも効果てきめんだよ、チラシ入らなくなったから」

誇らしげに答える。

「マジですか!そしたらウチも真似しようかな」

「うん、欲しかったらシールあげるよ」

彼女のフロアでエレベーターが開くと、じゃまたいつか、と別れた。

 

そして今日のこと。

アマゾンから書籍が届いたとメールが入る。宅配ボックスかポスト投函を指示したため、下まで取りに行かなければならない。

パーカーのフードを目深にかぶり、度のキツイ黒縁メガネに黒マスク、ピンクの靴下にクロックスという、完全なる輩スタイルでエレベーターに乗り込む。

 

エントランスに出ると、集合ポストの前で一人の老婆がプルプルと背伸びをしている。とりあえず無視して宅配ボックスを確認する。荷物はありませんと表示される。ということはポスト投函か、と振り返り自分の部屋番号のポストに手を伸ばそうとしたときーー。

プルプルと背伸びをする老婆の右手が、ウチのポスト口へと伸びていることに気が付く。

彼女の指の先にはエリア情報紙がグシャグシャになって押し込まれている。

老婆の身長が低いため、背伸びをしてもウチのポストに手が届かない。それでも頑張って情報紙の先端を投函口へ差し込むと、あとは下からグイグイと押し込んで落ちてこないようにしているのだ。

 

「ちょ、ちょっと、大丈夫?」

思わず老婆を心配する。そしてすかさず突っ込まれかけている情報紙を引き抜く。

ーーポストには大きく「チラシ入れんじゃねぇ!」の文字。

 

老婆を見下ろしながら、ゆっくりと努めて優しく説明する。

「ウチはね、これ、いらないからね」

さすがにグシャグシャの情報紙を返すわけにもいかず、これは自宅のゴミ箱に捨てるしかない。すると老婆は澱(よど)んだ瞳でわたしを見上げると、

「え゛ぁ?」

それは日本語ですか?というような、素っ頓狂な声を上げた。聞き取れなかったのだろうか。

「こ れ 、 い ら な い」

さらにゆっくり、大きな声で、そして笑顔でチラシを見せながら繰り返す。

「んぁ・・ごきげんよぅ」

なんだかよく分からないが、こう言っとけばいいか、といわんばかりの表情で老婆が答える。ダメだ、これは聞こえてないのかもしれないし、痴呆の気があるのかもしれない。いずれにせよ、会話は成立しない。

 

すると老婆、手提げからもそもそと新たな情報紙を取り出し、再びウチのポストに突っ込もうとするではないか。

 

「もう大丈夫だから!!ここにあるからね、ありがとうね!!」

老婆の手から情報紙を奪うと、彼女の手提げへとねじ込む。老婆の顔には「?」の文字が浮かぶ。彼女の背中をそっと支えながらエントランスの外へと押し出す。「どうもありがとうね~」と言いながら。

 

ーーこれはえげつない。

老婆をポスティング作業員として配置するとは、行政もえげつない。確かに彼女には「チラシ入れんじゃねぇ!」の文字は見えていないし、とにかく全部のポストにこの紙を入れてこいと言われ、忠実に任務を遂行していたはず。

こちらもそのような姿を目の当たりにして、無下に断ることもできない。

結果、求めてもいない情報紙を強引に受け取らせることに成功したわけだ。

 

ーーなんとも苦い昼下がりだった。

 

 

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